
アレクサンダーテクニークで拓く、あなたのトランペット演奏の新境地
1章 アレクサンダーテクニークがトランペット演奏にもたらす革命
1.1 なぜ、あなたの努力は報われないのか?
多くのトランペット奏者が、長時間の練習にもかかわらず、高音域の伸び悩み、音色の不安定さ、持久力の欠如といった壁に直面します。その根本原因は、しばしば「努力の量」や「才能」ではなく、**「身体の非効率な使い方」**にあります。伝統的な音楽教育で散見される「もっと腹で支えて」「もっと息を入れて」といった感覚的・根性論的な指導は、奏者に無意識の筋緊張を強いる結果となり、かえってパフォーマンスを阻害するケースが少なくありません。
1.1.1 根性論や感覚的な指導の限界
感覚的な指導は、奏者の身体内部で何が起きているかを客観的に捉えることを困難にします。例えば、「支え」という言葉の解釈は奏者によって異なり、腹直筋や外腹斜筋を過度に固める(abdominal stiffening)といった、呼吸の自由な動きを妨げる非効率な戦略につながりがちです。このような過剰な筋活動は、横隔膜の自然な運動を阻害し、呼気のコントロールを困難にするだけでなく、全身の不必要な緊張(extraneous tension)を誘発します (Watson, 2009)。
1.1.2 「正しい奏法」という幻想からの脱却
唯一絶対の「正しい奏法」というものは存在しません。人体の構造は個々人で異なり、最適な身体の使い方もまた多様です。アレクサンダーテクニークは、固定化された「フォーム」を押し付けるのではなく、奏者自身が自己の身体の使い方における**習慣的な妨害(habitual interference)**に気づき、それを手放すプロセスを重視します。目的は、理想的なフォームを模倣することではなく、個々の身体構造にとって最も効率的で自然なコーディネーションを発見することにあります。
1.2 身体はあなたの「第一の楽器」である
トランペットという金属製の楽器は、あくまで音を増幅・共鳴させるための「第二の楽器」です。真の音源、すなわち**「第一の楽器」は、奏者自身の身体**に他なりません。身体という楽器のコンディションが、最終的に生み出される音響の質を決定づけます。
1.2.1 演奏の質を決定づける「身体の使い方」
音色、音域、持久力、アーティキュレーションといったトランペット演奏のあらゆる技術的要素は、奏者の姿勢(posture)、呼吸(respiration)、そして全身の筋肉の協調性(muscular coordination)と分かちがたく結びついています。例えば、頭部が不自然に前方に突き出た姿勢(forward head posture)は、頸部の筋肉を緊張させ、気道を狭窄させることで、自由な息の流れを妨げ、音質を損なう一因となります (Shuto, 2021)。
1.2.2 効率的な身体運動が音色、音域、持久力に与える影響
運動学習(motor learning)の観点から見ると、非効率な身体の使い方は、目的の動作(演奏)を達成するために過剰なエネルギー消費を強います。これにより、筋肉は早期に疲労し、持久力が低下します。逆に、全身が統合され、必要最小限の筋活動で演奏できる状態では、エネルギー効率が向上し、より長く、より安定したパフォーマンスが可能になります。また、共鳴腔(口腔、咽頭腔など)が不必要な緊張から解放されることで、倍音豊かな(rich in overtones)響きが生まれ、音質が劇的に改善します。
1.3 アレクサンダーテクニークとは何か?
アレクサンダーテクニークは、100年以上前にF.M.アレクサンダー(1869-1955)によって開発された、心身のスキルを向上させるための教育的アプローチです。これは治療法や単なるリラクゼーション法ではなく、自己の習慣的な反応パターンに気づき、それを意識的に変容させていくための実践的な学習プロセスです。
1.3.1 心と身体の不必要な緊張に「気づく」ための探求
本テクニークの中核は、**自己の身体の使い方に対する「気づき(awareness)」**の質を高めることにあります。私たちは日常生活や専門的な活動の中で、無意識のうちに数多くの不必要な筋緊張を蓄積しています。アレクサンダーテクニークは、指導者(Teacher)の穏やかなハンズオン(hands-on guidance)と口頭での指示を通じて、奏者がこれらの習慣的な緊張パターンを認識し、知覚する手助けをします。
1.3.2 演奏行為を「減算」で考えるアプローチ
多くの奏法が、何かを「加える」(add)こと、例えば「もっと筋肉を使う」「もっと息を圧迫する」ことを求めるのに対し、アレクサンダーテクニークは**「減算(subtraction)」のアプローチ**を取ります。つまり、演奏を妨げている不必要な行為や緊張を「やめる(stop doing)」ことに焦点を当てます。この「しない(non-doing)」という概念が、身体に本来備わっている自然で効率的な働きを回復させる鍵となります。
2章 「吹く」のではなく「響かせる」身体へ – アレクサンダーテクニークの基本原則
アレクサンダーテクニークは、主に3つの中心的な概念、すなわち「プライマリーコントロール」「抑制」「指令」に基づいて構成されています。これらの原則を理解し適用することで、奏者は力ずくで「吹く」というアプローチから、身体全体で効率的に「響かせる」という、より洗練された演奏パラダイムへと移行することが可能になります。
2.1 プライマリーコントロール:全ての演奏の土台
プライマリーコントロール(Primary Control)とは、F.M.アレクサンダーが発見した、頭・首・胴体(特に背中)の動的な関係性が、全身の筋肉の協調性とバランスを支配するという中心的な概念です。この関係性が最適に機能しているとき、身体は最も効率的に動くことができます。
2.1.1 頭・首・背中の関係性がもたらす全身のコーディネーション
神経生理学的に見ると、頸部には姿勢を制御するための固有受容器(proprioceptors)が密集しており、頭部の位置や動きに関する情報は、中枢神経系が全身の筋緊張を調整するための重要な参照点となります。シカゴ大学の名誉教授であったFrank Pierce Jonesの研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを通じて被験者の頭頸部のバランスが改善されると、立位や歩行といった動作全体の効率性が向上することが示されています (Jones, 1976)。この原則は、座って演奏するトランペット奏者にとっても同様に重要です。
2.1.2 自由な頭が導く、身体の中心軸とバランス
プライマリーコントロールの鍵は、「首の筋肉を自由に保ち、それによって頭が胴体の上で前方かつ上方へ向かう(to allow the neck to be free, to let the head go forward and up)」ことを意図することにあります。この「前方かつ上方へ」という方向性は、物理的に頭を動かすことではなく、重力との関係性の中で頭部がバランスを取り、脊椎全体が不必要な圧縮から解放されることを促す思考です。この状態が実現されると、胴体は自然に「長く、広く(to lengthen and widen)」なり、演奏に必要な安定した基盤が生まれます。
2.2 「抑制(Inhibition)」:演奏を妨げる無意識の「癖」を手放す
抑制(Inhibition)は、アレクサンダーテクニークにおける最も重要な能動的プロセスです。これは、ある刺激(例:「高音を吹こう」)に対して、習慣的に引き起こされる自動的な反応(例:首をすくめる、肩を上げる、腹を固める)を意識的に停止させる決断を指します。
2.2.1 音を出す瞬間に起こる、習慣的な身体の反応パターン
演奏における多くの問題は、奏者が「音を出す」という目的を達成しようとする瞬間に、無意識的かつ自動的に引き起こす不必要な身体反応に起因します。この現象は「目的志向(End-gaining)」として知られ、望む結果を得ようと焦るあまり、そのための手段(means-whereby)を疎かにしてしまう傾向を指します。抑制は、この自動的な反応の連鎖を断ち切るための「間」を作り出します。
2.2.2 「しない」ことを選択する勇気がもたらす変化
抑制は、単に何もしないことではありません。それは、古い、非効率な神経経路の使用を拒否し、新しい、より効率的な選択肢のためのスペースを脳内に作り出す、積極的な精神活動です。神経科学の観点からは、これは前頭前皮質が関与する実行機能(executive function)の一部である抑制制御(inhibitory control)と関連しています。このプロセスを通じて、奏者は刺激と反応の間に意識的な選択を介在させることが可能となり、長年染み付いた「癖」から自由になる第一歩を踏み出します。
2.3 「指令(Direction)」:身体が向かうべき建設的な方向性
抑制によって古い習慣を停止させた後、新しい建設的な身体の使い方のための青写真として機能するのが「指令(Direction)」です。これは、筋肉を直接的に操作しようとするのではなく、身体の各部分がどのように連携して機能すべきかについての思考のメッセージを送り続けるプロセスです。
2.3.1 「背中を伸ばす」のではなく「背中が伸びていく」という意識
指令は、静的なポジションを作ることではありません。例えば、「背中を長く、広く保つ(to let my back lengthen and widen)」という指令は、背中の筋肉を力ずくで引き伸ばすこととは全く異なります。むしろ、プライマリーコントロールが機能することを許容し、脊椎が自然に解放され、伸長していくプロセスを妨げないように意図することです。これは、動的で継続的な思考プロセスであり、身体の内部空間が広がっていくような感覚を伴います。
2.3.2 全身の繋がりを再構築するプロセス
指令は、プライマリーコントロールに関連する中心的なもの(首、頭、背中)から、四肢の末端(指先、足先)に至るまで、全身にわたって送られます。例えば、「膝を前方へ、そしてお互いから離れるように」といった指令は、下半身の不要な緊張を解放し、骨盤の安定に寄与します。これらの指令を統合的に用いることで、奏者は身体全体の繋がりを再認識し、部分ではなく全体として機能する、高度に統合された演奏システムを再構築することができます。
3章 呼吸の改革 – 「吸う」と「吐く」の常識を覆す
トランペット演奏において、呼吸は音のエネルギー源であり、その質は演奏全体のクオリティを左右します。アレクサンダーテクニークは、多くの奏者が抱える呼吸に関する誤解を解き、身体の構造に基づいた、より自然で効率的な呼吸法へと導きます。
3.1 呼吸のメカニズムの再認識
効率的な呼吸の第一歩は、呼吸器系の解剖学的・生理学的構造を正しく理解することから始まります。多くの奏者は、呼吸を「肺に空気を詰め込む」行為として捉えがちですが、実際にはより複雑で洗練されたプロセスです。
3.1.1 横隔膜と肋骨の自然で立体的な動き
吸気時、主要な呼吸筋である横隔膜(diaphragm)は収縮して下方に移動し、胸腔の容積を垂直方向に増大させます。同時に、外肋間筋(external intercostal muscles)が収縮し、肋骨(ribs)を上方かつ外側に引き上げます(ポンプハンドル運動およびバケツハンドル運動)。これにより、胸腔は前後および左右にも拡大します。この胸郭(thoracic cage)の三次元的な拡大こそが、肺が自然に拡張し、空気が流れ込むための空間を作り出すのです。呼気は、特に安静時や軽度の活動時においては、これらの筋肉が弛緩することによる、主に弾性収縮(elastic recoil)に依存する受動的なプロセスです。
3.1.2 呼吸を妨げる筋肉の不必要な緊張とは何か
多くの管楽器奏者は、より多くの息を吸おうとするあまり、胸鎖乳突筋(sternocleidomastoid)や斜角筋(scalene muscles)といった**呼吸補助筋(accessory muscles of inspiration)**を過剰に使用します。これらの筋肉は、本来、激しい運動時など、追加の努力が必要な場合にのみ動員されるべきものです。これらの筋肉の慢性的な過緊張は、首や肩の凝りを引き起こすだけでなく、胸郭上部を不自然に固定し、横隔膜と肋骨下部の自由な動きを著しく妨げます (Watson, 2009)。
3.2 「息の支え」という最大の誤解を解く
管楽器教育における「息の支え(support)」という概念は、最も誤解されやすいものの一つです。しばしば、腹筋群を固く締め付けること(abdominal bracing)と同一視され、逆効果な結果を招いています。
3.2.1 腹筋を固めることが生み出す、響きの無い音
腹壁を過度に固めることは、いくつかの問題を引き起こします。第一に、吸気時に横隔膜が下降するのを妨げ、十分な量の息を楽に取り込むことを困難にします。第二に、呼気時に腹圧を柔軟にコントロールする能力を奪い、硬直した、響きの乏しい音色(a hard, unresonant tone)を生み出します。このような静的な筋収縮は、身体の自由な振動を抑制し、共鳴を妨げるのです。
3.2.2 「支え」の正体:動的なバランスと圧の解放
アレクサンダーテクニークの観点から見た真の「支え」とは、特定の筋肉を固めることではなく、**全身の動的なバランス(dynamic balance)**からもたらされるものです。プライマリーコントロールが機能し、脊椎が伸長し、胴体が広がっている状態では、呼吸筋は最も効率的に働くことができます。この文脈における「支え」とは、腹筋群と横隔膜、そして骨盤底筋群が拮抗しながらも柔軟に連携し、呼気の流れを繊細に調整する能力を指します。それは静的な固定ではなく、絶えず変化する音楽的要求に応じる、動的で応答性の高いプロセスなのです。
3.3 自由な息の流れが生み出す、豊かで芯のある響き
不必要な緊張から解放された呼吸システムは、演奏に劇的な変化をもたらします。それは単に「楽に吹ける」というレベルに留まりません。
3.3.1 量より質の高いブレスコントロール
アレクサンダーテクニークを通じて得られるのは、最大吸気量(vital capacity)の単純な増大ではなく、呼吸効率の向上です。つまり、より少ない努力で、より効果的に息を音響エネルギーに変換する能力です。呼気の流れがスムーズで妨げられないとき、奏者は微細な音楽的ニュアンスを表現するための、より繊細なコントロールを手に入れることができます。
3.3.2 音の始まり(アタック)における息と身体の関係性
クリアなアタックは、声門(glottis)や舌、唇の閉鎖と、その後の呼気圧の解放が正確に同調することで生まれます。全身、特に頭頸部に不必要な緊張があると、このタイミングが乱れ、不明瞭なアタックや、過度に爆発的なアタック(hard attack)につながります。プライマリーコントロールが機能し、全身が統合された状態では、アタックの瞬間に起こりがちな「身構え」の反応が抑制され、息は意図した通りにスムーズに流れ始め、クリーンで響きのある音の立ち上がりを実現します。
4章 アンブシュアと腕、指の自由 – 力みからの解放
トランペット演奏における高度な技術は、アンブシュア、腕、指といった末端部分の精密なコントロールに依存します。しかし、これらの部分の自由度は、身体の中心部、すなわち胴体の安定性と協調性から切り離して考えることはできません。アレクサンダーテクニークは、全身の統合を通じて、これらの末端部分を力みから解放します。
4.1 アンブシュア:唇周りの過緊張からの解放
アンブシュアは、単なる唇の形ではありません。それは、顔面筋、顎、そして全身の姿勢バランスが関与する複雑なシステムです。多くの奏法上の問題は、この領域の過剰な筋緊張に起因します。
4.1.1 プレス圧と音質、高音域の相関関係
高音域を出すためにマウスピースを唇に強く押し付ける(excessive mouthpiece pressure)ことは、多くの奏者が陥る罠です。スコットランドのグラスゴー大学で行われた研究では、熟練した奏者ほど、より少ないマウスピース圧で効率的に演奏する傾向があることが示されています (Barbenel, Kenny, & Davies, 1988)。過剰な圧力は、唇の微細な振動を物理的に妨げ、血流を阻害して持久力を著しく低下させます。さらに、音色を硬く、薄っぺらいものにしてしまいます。
4.1.2 全身のバランスが支える、しなやかで安定したアンブシュア
アレクサンダーテクニークは、アンブシュアの問題を局所的にではなく、全身のコーディネーションの一部として捉えます。プライマリーコントロールが機能し、頭が胴体の上で自由にバランスを取っているとき、顎や顔面筋にかかる不必要な緊張は自然に減少します。この全身の統合的なサポートがあって初めて、アンブシュアは最小限の努力で、音楽的要求に応じて柔軟に変化できる、しなやかさと安定性を両立させることが可能になります。高音域は、プレス圧ではなく、効率的な息の流れと、共鳴腔の最適なシェイピングによって生み出されるのです。
4.2 腕と指:軽やかで正確無比なフィンガリングへ
速く正確なフィンガリングは、指の筋力だけで達成されるものではありません。それは、腕全体の自由度と、それを支える胴体の安定性に大きく依存しています。
4.2.1 肩甲骨と腕の自由が、指先の運動能力を最大化する
運動制御の原則によれば、末端部(distal parts, 例: 指)の巧緻性は、中枢部(proximal parts, 例: 肩甲帯)の安定性と自由度に依存します。肩や肘が不必要に固定されていると、指はしなやかに動くことができません。アレクサンダーテクニークは、腕が肩甲骨(scapula)から始まり、その肩甲骨が広い背中の上で自由に動けるという認識を促します。この認識により、腕全体が胴体から解放され、その自由が指先にまで伝わり、軽やかで効率的なフィンガリングが実現します。
4.2.2 楽器のホールディングと身体の統合
トランペットの重さを支えるために、腕や肩に過剰な力が入っている奏者は少なくありません。これは、腕の筋肉を静的な保持作業に浪費させ、フィンガリングに必要な運動能力を奪います。理想的には、楽器の重さは、腕の骨格構造を通じて、バランスの取れた胴体、そして椅子や床へと効率的に伝えられるべきです。これにより、筋肉は動的な活動のために解放され、楽器と身体が一体化したかのような感覚が生まれます。
4.3 顎、舌、喉の自由がもたらす変化
顎(jaw)、舌(tongue)、喉(throat)の領域は、アンブシュア、呼吸、アーティキュレーションが交差する、きわめて重要なジャンクションです。これらの部位の緊張は相互に影響し合います。
4.3.1 喉の詰まり感や舌の硬直の根本原因
演奏中に喉が締まる感覚や、舌が硬直してタンギングが不自由になる感覚は、多くの場合、プライマリーコントロールの不全に起因します。頭が後方へ引かれ、首の前側の筋肉が緊張すると、咽頭腔(pharyngeal cavity)が物理的に狭められ、舌根部(the root of the tongue)も緊張します。この根本原因に対処せず、舌だけをリラックスさせようとしても、効果は限定的です。
4.3.2 明瞭なアーティキュレーションとタンギングの実現
自由な顎、柔らかい舌、開かれた喉は、明瞭なアーティキュレーションの前提条件です。プライマリーコントロールが回復し、頭頸部のバランスが整うと、顎関節(temporomandibular joint, TMJ)は自由に動けるようになります。これにより、舌は口腔内で妨げられることなく、軽快かつ正確に動き、様々なニュアンスのタンギング(レガート、スタッカートなど)を自在に表現することが可能になります。
5章 メンタルと表現力 – パフォーマンスの質を飛躍させる
アレクサンダーテクニークは、単なる身体的なテクニックに留まらず、心と身体の不可分な関係性(psychophysical unity)に働きかけることで、メンタル面や音楽的表現力にも深い影響を及ぼします。特に、音楽演奏不安(MPA)の管理や、より深いレベルでの音楽との一体化において、その効果が注目されています。
5.1 「あがり」やパフォーマンス不安のメカニズム
音楽演奏不安(Music Performance Anxiety, MPA)、いわゆる「あがり」は、多くの演奏家が経験する深刻な問題です。これは精神的な弱さではなく、特定の状況に対する心身の予測的・自動的な反応です。
5.1.1 刺激に対する心身の自動的な収縮反応
本番やオーディションといったプレッシャーのかかる状況は、中枢神経系によって「脅威」として認識されることがあります。これにより、自律神経系の**交感神経系が活性化し、「闘争・逃走・凍結反応(fight-flight-freeze response)」**が引き起こされます。具体的には、心拍数の増加、発汗、呼吸の浅薄化、筋緊張の亢進といった生理的変化が生じます。これらは、演奏に必要な精密な運動制御を著しく妨害します。ロンドンの王立音楽大学(Royal College of Music)のAaron Williamon教授らによる研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた音楽学生が、MPAのレベルを有意に低減させたことが報告されています (Valentine, O’Neill, & Williamon, 2004)。この研究では、15人の学生が15回のアレクサンダーテクニークレッスンを受け、統制群と比較して自己申告による不安レベルが大幅に改善しました。
5.1.2 状況に対する「解釈」を変化させる
アレクサンダーテクニークは、この自動的な心身反応の連鎖に「抑制(Inhibition)」を適用することで介入します。奏者は、不安を引き起こす刺激(聴衆の存在、難しいパッセージなど)に対して、いつものように自動的に収縮し、緊張するのではなく、一瞬立ち止まり、その反応を「しない」ことを選択します。そして、建設的な「指令(Direction)」を用いることで、脅威下にあっても心身のバランスと統合を保つことを学習します。これにより、状況そのものを変えるのではなく、状況に対する自己の反応と解釈を意識的に変容させることが可能になります。
5.2 「目的志向(End-gaining)」からの自由
「End-gaining」とは、F.M.アレクサンダーが提唱した概念で、結果や目的(the end)を性急に追い求めるあまり、その達成に必要な信頼できるプロセスや手段(the means-whereby)を無視してしまう傾向を指します。これは、パフォーマンスの質を低下させる主要な要因の一つです。
5.2.1 結果にとらわれず「今、ここ」のプロセスに集中する
「完璧な音を出したい」「ミスをしたくない」という結果への強い執着は、奏者の注意を「今、ここ」で行うべきことから逸らさせます。その結果、身体は過剰に緊張し、かえってミスを誘発するという悪循環に陥ります。アレクサンダーテクニークは、この目的志向のパターンを抑制し、注意の焦点を「結果」から「プロセス」へと移行させます。つまり、一つ一つの音を出す瞬間に、自分の心身がどのように機能しているか、プライマリーコントロールが働いているか、といったプロセスそのものに意識を向けるのです。
5.2.2 ミスへの過剰な恐怖心を手放す思考法
プロセスに集中することで、ミスは「失敗」ではなく、単なる「フィードバック」として捉え直されます。ミスが起きたとき、自己を責めるのではなく、「今、自分の心身の使い方のどこに妨害があったのか?」と客観的に分析し、次の瞬間に修正を加える機会とすることができます。この思考法は、ミスに対する過剰な恐怖心を和らげ、より自由で探求的な演奏態度を育みます。
5.3 音楽と一体になるための身体的条件
最高の演奏は、奏者が自我を忘れ、音楽そのものと一体化したかのようなフロー状態(flow state)で生まれると言われます。この状態は、精神的なものだけでなく、身体的な条件にも大きく依存します。
5.3.1 身体の自由が拓く、音楽的表現の無限の可能性
身体が不必要な緊張から解放され、全体として調和的に機能しているとき、奏者は音楽の流れに身を任せることが容易になります。硬直した身体は、音楽の微細なニュアンスや感情の起伏を表現する上での大きな障害となります。対照的に、自由で応答性の高い身体は、音楽的意図を遅延なく、そして歪みなく音響へと変換するための、透明な媒体(a transparent medium)となります。
5.3.2 「聴くこと」と「演奏すること」の調和
アレクサンダーテクニークは、感覚の信頼性(sensory appreciation)を高めるプロセスでもあります。多くの奏者は、自分が実際にどのような音を出しているかを正確に聴けておらず、自分の身体がどのように動いているかを正確に感じられていません。習慣的な緊張は、感覚フィードバックの質を歪めてしまうのです。テクニークの実践を通じて、この感覚の信頼性が回復すると、「聴くこと」と「演奏すること」の間に、より緊密なフィードバックループが形成されます。奏者は、自分が生み出す音をより客観的に聴き、その情報に基づいてリアルタイムで心身の使い方を微調整できるようになり、表現の精度と深みが飛躍的に向上するのです。
まとめとその他
6.1 まとめ
本稿では、アレクサンダーテクニークがトランペット演奏にもたらす多岐にわたる利益を、学術的な知見を交えながら概説しました。要点を以下にまとめます。
- 根本原因へのアプローチ: 多くの演奏上の問題は、才能や努力の不足ではなく、無意識的で非効率な身体の使い方(習慣的な妨害)に起因します。アレクサンダーテクニークは、この根本原因に直接アプローチします。
- 身体は第一の楽器: 演奏の質は、奏者の心身の状態、特に頭・首・背中の動的な関係性(プライマリーコントロール)によって決定づけられます。
- 減算の哲学: テクニークの核心は、演奏を妨げる不必要な緊張や努力を「やめる(抑制)」ことにあり、これにより身体本来の自然で効率的な機能が回復します。
- 全体性の回復: 呼吸、アンブシュア、フィンガリングといった個別の技術は、全身の統合的なコーディネーションの中で捉え直され、力みから解放されます。
- 心身の統一: 身体の使い方の改善は、パフォーマンス不安の軽減や集中力の向上といったメンタル面にも直接的な効果をもたらし、より深い音楽表現を可能にします。
アレクサンダーテクニークは、特定の奏法を教えるものではなく、奏者自身が自己の最良の教師となるための「学び方」を学ぶプロセスです。それは、トランペット演奏における技術的・表現的なブレークスルーを求めるすべての奏者にとって、自己の可能性を再発見するための強力なツールとなり得ます。
6.2 参考文献
- Barbenel, J. C., Kenny, P., & Davies, J. B. (1988). Mouthpiece forces produced by brass players. Journal of Biomechanics, 21(5), 417-424.
- Jones, F. P. (1976). Body awareness in action: A study of the Alexander Technique. Schocken Books.
- Shuto, T. (2021). Relationship between head posture and respiratory function. Journal of Physical Therapy Science, 33(11), 830-834.
- Valentine, E., O’Neill, S., & Williamon, A. (2004). The role of the Alexander Technique in the management of music performance anxiety. In A. Williamon (Ed.), Musical excellence: Strategies and techniques to enhance performance (pp. 147-164). Oxford University Press.
- Watson, A. H. D. (2009). The biology of musical performance and performance-related injury. Scarecrow Press.
6.3 免責事項
本記事で提供される情報は、教育的な目的のためのものであり、医学的な診断や治療に代わるものではありません。身体に痛みや不調がある場合は、まず資格のある医療専門家にご相談ください。アレクサンダーテクニークの学習は、STAT(The Society of Teachers of the Alexander Technique)や関連団体によって認定された有資格の教師の指導のもとで行うことを強く推奨します。