
プロも実践!アレクサンダーテクニークがサックス演奏を進化させる
1章 はじめに
サックス演奏は、豊かな音色と幅広い表現力で多くの人々を魅了する音楽活動です。しかし、その魅力を最大限に引き出し、かつ奏者自身が心身ともに健やかに演奏活動を続けるためには、楽器の技術習得だけでなく、自分自身の「使い方」への深い理解と意識が不可欠となります。本章では、心身の不必要な緊張に気づき、より調和の取れた効率的な自己使用法を再教育する「アレクサンダーテクニーク」を紹介し、このテクニークがなぜサックス演奏にとって非常に有益となり得るのか、その基本的な理由と関連性について概説します。
1.1 アレクサンダーテクニークとは?
アレクサンダーテクニークは、19世紀末から20世紀初頭にかけてオーストラリア出身の俳優フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(Frederick Matthias Alexander, 1869-1955)によって開発された、心身の自己使用法に関する教育的アプローチです。アレクサンダーは、自身の俳優としてのキャリアを脅かすほどの深刻な発声障害に悩まされ、当時の医療では解決策が見いだせませんでした。そこで彼は、鏡の前で自分自身を注意深く観察し、発声しようとするときの自身の身体の動きや緊張のパターンを詳細に分析し始めました。この長年にわたる自己観察と実験の結果、彼は特定の習慣的な身体の使い方(特に頭、首、背中の関係性)が、発声だけでなく、あらゆる動作の質に根本的な影響を与えていることを発見しました (Alexander, 1932)。
1.1.1 心と体の不必要な緊張への気づき
アレクサンダーテクニークの出発点は、私たちがいかに無意識のうちに、日常生活や特定の活動(サックス演奏のような専門的なスキルを含む)において、心身に不必要な緊張を抱え込んでいるかに「気づく」ことです。これらの緊張は、しばしば長年の習慣によって自動化されており、本人にとっては「普通」あるいは「自然」と感じられるため、その存在や悪影響になかなか気づくことができません。
例えば、サックスを構える際に無意識に肩をすくめたり、難しいパッセージを演奏しようとして顎を固めたり、あるいは息を吸うときに胸を不自然に持ち上げたりするかもしれません。これらの過剰な緊張は、エネルギーの浪費、動きの制限、疲労の増大、さらには痛みや演奏関連の障害(Playing-Related Musculoskeletal Disorders, PRMDs)の原因となり得ます。ある研究では、音楽大学生の約76%が過去1年間に何らかの演奏関連の痛みを経験したと報告されており、その多くが不適切な身体の使い方や過度な練習時間と関連していることが示唆されています (Chan & Ackermann, 2014)。アレクサンダーテクニークは、このような無意識的で不利益な緊張パターンに意識の光を当て、それらを認識し、手放していくプロセスを支援します。この「気づき(Awareness)」のプロセスは、変容の第一歩であり、テクニークの核心的な要素です。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Chan, C., & Ackermann, B. J. (2014). Evidence-informed physical therapy management of performance-related musculoskeletal disorders in musicians. Frontiers in Psychology, 5, 783.
1.1.2 アレクサンダーテクニークの基本的な考え方
アレクサンダーテクニークは、単なるリラクゼーション法やエクササイズではなく、より広範な教育的アプローチであり、以下のようないくつかの基本的な考え方に基づいています。
- 心身一体(Psychophysical Unity): アレクサンダーは、心と身体は分離できない統一体であると強調しました。精神的な状態(思考、感情、意図)は身体的な緊張や動きに影響を与え、逆に身体的な状態も精神的なあり方に影響を与えます。したがって、テクニークは心と身体の両面に働きかけます。
- 「使い方(Use)」が「機能(Functioning)」に影響する: 人間が自分自身をどのように使うか(Use of the Self)が、その人の全体的な機能(呼吸、循環、消化、動き、思考など)の質を決定するという考え方です。不適切な使い方は機能を損ない、適切な使い方は機能を向上させます。
- 習慣(Habit)の力と変容の可能性: 私たちの行動の多くは習慣によって支配されていますが、これらの習慣は必ずしも最善のものではありません。アレクサンダーテクニークは、不利益な習慣を意識的に「抑制(Inhibition)」し、より建設的な「方向づけ(Direction)」を与えることで、習慣を再教育し、変容させる可能性を示します。
- プライマリーコントロール(Primary Control): 頭・首・背骨の関係性が、全身の協調性とバランスの鍵を握るという中心的な概念です。この関係性が調和しているとき、身体はより効率的に機能します。これについては第2章で詳述します。
- 感覚の誤認識(Debauched Kinaesthesia / Unreliable Sensory Appreciation): 長年の習慣により、自分の身体感覚が歪められ、何が「正しい」使い方で何が「間違った」使い方であるかを正確に判断できなくなっている状態。このため、客観的な指導やフィードバックが重要となります。
これらの基本的な考え方は、F.M.アレクサンダーの著作、特に『Man’s Supreme Inheritance』(1910年初版)、『Constructive Conscious Control of the Individual』(1923年)、そして前述の『The Use of the Self』(1932年)などで詳述されています。著名な哲学者であり教育者であったジョン・デューイ(John Dewey)はアレクサンダーの仕事を高く評価し、その著作の序文で、アレクサンダーテクニークを「自己の知的な方向付けと管理のための方法」として推奨しています (Dewey, in Alexander, 1932)。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Dewey, J. (1932). Introduction. In F. M. Alexander, The Use of the Self (pp. xxi-xxxiv). Methuen & Co. Ltd.
1.2 なぜサックス演奏にアレクサンダーテクニークが役立つのか?
サックス演奏は、一見すると指や口先、呼吸といった局所的なスキルに依存しているように見えるかもしれません。しかし実際には、楽器を支え、安定した呼吸を生み出し、複雑な運指をこなし、音楽的な表現を行うためには、全身の調和の取れた協力が不可欠です。アレクサンダーテクニークは、この全身的な協調性を高め、サックス奏者が直面する多くの課題に対して具体的な解決策を提供し得るのです。
1.2.1 演奏パフォーマンスと身体の使い方の関連性
サックス演奏には、長時間同じ姿勢を保つこと、反復的な指の動き、持続的な呼気コントロールなど、身体にとって負担となり得る要素が多く含まれます。これらの活動が不適切な身体の使い方(過度な緊張、非効率なアライメントなど)と結びつくと、演奏パフォーマンスの低下だけでなく、前述のPRMDsのリスクを高めます。
- PRMDsの予防と管理: オーストラリアの研究者であるBronwen Ackermann教授(シドニー大学)らは、音楽家のPRMDsに関する広範な研究を行っており、その予防と管理における身体意識と人間工学的アプローチの重要性を強調しています (Ackermann & Adams, 2004)。アレクサンダーテクニークは、まさにこの身体意識を高め、より効率的で負担の少ない身体の使い方を学ぶための教育メソッドであり、PRMDsの予防や、既に問題を抱えている奏者のリハビリテーションプロセスにおいて有効な補助となり得ます。
- 技術の向上: 身体の不必要な緊張が解放されると、指の動きはより速く正確になり、呼吸はより深くコントロールしやすくなり、アンブシュアはより安定し柔軟になります。これにより、難しいパッセージの克服、音域の拡大、音色の改善、スタミナの向上など、技術的な側面での進歩が期待できます。例えば、スポーツ科学の分野では、運動効率の改善がパフォーマンス向上に直結することが広く認識されており、同様の原理が音楽演奏にも当てはまります。
- Ackermann, B. J., & Adams, R. D. (2004). The effect of a postural education program on rectus abdominis activity and lumbar lordosis in novice Pipers. Journal of Orthopaedic & Sports Physical Therapy, 34(12), 788-796. (この研究はバグパイプ奏者を対象としていますが、音楽家の姿勢教育の重要性を示唆しています。)
1.2.2 音楽表現における身体意識の重要性
音楽は技術だけではなく、感情やニュアンスを伝える芸術です。アレクサンダーテクニークを通じて身体意識が高まり、身体がより自由で応答的になると、音楽表現の幅も大きく広がります。
- 身体の解放と表現の自由: 身体が固まっていたり、不必要な緊張に囚われていたりすると、奏者の音楽的意図が音として十分に表現されません。アレクサンダーテクニークは、これらの身体的な制約を取り除くことで、より繊細なダイナミクス、豊かな音色の変化、流れるようなフレージングといった音楽的表現を可能にするための身体的な「余地」を生み出します。
- 感情と身体のつながり: 音楽表現は感情と深く結びついており、感情は身体的な状態として現れることがよくあります。例えば、喜びは開放的な身体感覚、不安は収縮した身体感覚と関連することがあります。アレクサンダーテクニークは、身体の緊張パターンを認識し解放することで、感情的なブロックも解放し、より素直で深みのある音楽表現を助ける可能性があります。心理学者ポール・エクマン(Paul Ekman、カリフォルニア大学サンフランシスコ校名誉教授)の研究は、感情と顔の表情(筋活動)の普遍的な関連性を示していますが (Ekman, 1992)、これは感情と身体全体の使い方の関連性を示唆する広範な研究分野の一部です。
- 演奏への没入感(フロー状態): 身体が快適で、技術的な困難に過度にとらわれることなく演奏に集中できるとき、奏者は「フロー状態」として知られる深い没入感を体験しやすくなります。ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)によって提唱されたこの概念は、最適な経験としての創造的活動の核心であり (Csikszentmihalyi, 1990)、アレクサンダーテクニークは、この状態に至るための身体的・精神的な基盤を整えるのに役立ちます。
- Ekman, P. (1992). An argument for basic emotions. Cognition & Emotion, 6(3-4), 169-200.
- Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
このように、アレクサンダーテクニークは、サックス奏者が心身の不必要な緊張から解放され、より効率的で調和の取れた自己使用法を獲得するための強力なツールです。それは技術的な問題を克服するだけでなく、演奏する喜びを高め、音楽家としての生涯にわたる健康と成長をサポートする可能性を秘めています。以降の章では、これらの原則と応用についてさらに詳しく掘り下げていきます。
2章 アレクサンダーテクニークの基本原則とサックス演奏への応用
アレクサンダーテクニークは、身体の不必要な緊張を解放し、より効率的で調和の取れた心身の使い方を再学習するための教育的アプローチです。本章では、その基本原則である「プライマリーコントロールの理解」「インヒビション(抑制)とディレクション(方向づけ)の活用」「感覚の誤認識への対処」「エンド・ゲイニングからの解放」について詳述し、それらがサックス演奏にどのように応用できるのかを探求します。これらの原則を理解し実践することは、サックス奏者が技術的な困難を克服し、音楽表現の可能性を最大限に引き出す上で不可欠な要素となります。
2.1 プライマリーコントロールの理解
プライマリーコントロールとは、頭と首、そして背骨(特に脊柱)の間の動的な関係性を指し、この関係性が身体全体の協調性、バランス、動きの質に根本的な影響を与えるというアレクサンダーテクニークの中心的な概念です。創始者であるF.M.アレクサンダーは、自身の発声の問題を解決する過程で、頭が首の上で自由にバランスを取り、それに伴って胴体が伸びやかに解放される(lengthen and widen)ことが、あらゆる動作の質を高める鍵であることを発見しました (Alexander, 1932)。
2.1.1 頭・首・背骨の関係性とその重要性
頭部は、成人で約4.5~5kgの重さがあり、この重い頭部が脊柱の最上部(環軸関節)で適切にバランスされることで、脊柱全体への不必要な圧縮が避けられ、神経系のスムーズな伝達も促されます。逆に、頭が前方に突き出たり、後方に傾いたり、あるいはどちらかに偏ったりすると、首や肩、背中の筋肉に過剰な負担がかかり、慢性的な緊張や痛みの原因となり得ます。この状態は、呼吸の深さや効率にも影響を及ぼします。例えば、前方頭位姿勢(Forward Head Posture)は、胸郭の動きを制限し、呼吸補助筋の過剰な使用を招くことが指摘されています (Kapreli, Vourazanis, & Strimpakos, 2008)。
音楽演奏家を対象とした研究では、不適切な姿勢、特に頭頸部の位置異常が演奏関連の筋骨格系障害(Playing-Related Musculoskeletal Disorders, PRMDs)のリスクを高めることが示唆されています。例えば、ある研究では、管楽器奏者におけるPRMDsの有病率と、演奏中の姿勢との関連性が調査され、特に頸部や肩の問題が多く報告されています (Chan & Ackermann, 2014)。アレクサンダーテクニークは、この頭・首・背骨のダイナミックな関係性を最適化することで、身体全体の協調性を改善し、PRMDsの予防やパフォーマンス向上に寄与する可能性が期待されます。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Kapreli, E., Vourazanis, E., & Strimpakos, N. (2008). Neck pain causes decrease in cervical range of motion, ventilatory functions, and pressure pain threshold. Biological Research for Nursing, 10(2), 125-134.
- Chan, C., & Ackermann, B. J. (2014). Evidence-informed physical therapy management of performance-related musculoskeletal disorders in musicians. Frontiers in Psychology, 5, 783.
2.1.2 サックス演奏時の姿勢とプライマリーコントロール
サックス演奏においては、楽器を構え、呼吸をコントロールし、複雑な運指を行うために、全身の協調性が求められます。プライマリーコントロールが適切に機能していない場合、サックス奏者は以下のような問題に直面しやすくなります。
- 首や肩の凝り・痛み: 楽器の重さを支えるために頭を前に突き出したり、肩をすくめたりする代償動作。
- 呼吸の浅さ: 胸郭が圧迫され、横隔膜の動きが制限されることによる吸気量の減少。
- 腕や指の緊張: 体幹の不安定さを補うために、腕や指に不必要な力が入る。
- 音色の硬直化: 身体全体の緊張がアンブシュアや舌のコントロールにも影響し、響きの乏しい硬い音色になる。
アレクサンダーテクニークのレッスンでは、教師は言葉による指示や軽いタッチ(ハンズオン)を用いて、生徒が頭を脊柱の頂点で自由にバランスさせ、その結果として胴体が自然に伸び広がる感覚を体験できるよう導きます。サックス奏者は、このプライマリーコントロールの意識を演奏中に持ち込むことで、例えば、ストラップに楽器の重さを預けつつも首が自由であること、座奏時も立奏時も脊柱が伸びやかであることを意識し、より楽で効率的な演奏姿勢を維持できるようになります。これにより、呼吸は深くなり、指の動きは軽快になり、音色にも豊かな響きが生まれる土壌が育まれます。シドニー大学音楽学部の研究者は、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた音楽学生において、演奏時の姿勢の改善と不安感の軽減が見られたと報告しています。
2.2 インヒビション(抑制)とディレクション(方向づけ)の活用
インヒビションとディレクションは、プライマリーコントロールを回復・維持し、望ましい心身の使い方を実現するための具体的な手段であり、アレクサンダーテクニークの中核をなす実践的なプロセスです。これらは、自動的・無意識的な反応を意識的に見直し、より建設的な選択をする能力を養います。
2.2.1 習慣的な動きと思考のパターンを抑制する
インヒビションとは、ある刺激に対して自動的に起こる習慣的な反応(多くは不必要に緊張を伴うもの)を意識的に「しないでおく」「差し控える」ことです。これは単なる停止ではなく、次の行動に移る前に「間」を作り、より意識的な選択をするための準備段階と捉えられます。人間は、日々の生活や特定の活動(例えば楽器演奏)を通じて、特定の動きや思考のパターンを無意識のうちに形成します。これらのパターンが非効率的であったり、身体に過度な負担をかけていたりする場合でも、習慣化しているために気づきにくいものです。
神経科学の観点からは、習慣的行動は基底核を中心とした神経回路によって制御されており、これを抑制するには前頭前皮質の関与が必要とされます (Graybiel, 2008)。アレクサンダーテクニークにおけるインヒビションの実践は、この前頭前皮質の機能を活性化させ、自動的な反応ループを断ち切るトレーニングと見なすことができます。サックス奏者が、例えば難しいパッセージに差し掛かった瞬間に無意識に肩をすくめたり、息を止めたりする習慣がある場合、インヒビションはその反応を「しない」と意識的に決定することを意味します。
- Graybiel, A. M. (2008). Habits, rituals, and the evaluative brain. Annual Review of Neuroscience, 31, 359-387.
2.2.2 望ましい身体の使い方を意識的に方向づける
インヒビションによって習慣的な反応を差し控えた後、次に「ディレクション(方向づけ)」を行います。ディレクションとは、特定の身体の部分(特に頭、首、背中)がどのようにあってほしいか、どのような関係性であってほしいかを、言葉や思考を用いて意識的に「方向づける」ことです。重要なのは、力ずくで特定の形を作ろうとするのではなく、身体が自然にその方向へ向かうことを「許す(allow)」という感覚です。
F.M.アレクサンダーが用いた主要なディレクションは、「首を自由に(Let the neck be free)」「頭が前方と上方へ(To allow the head to go forward and up)」「背中が伸びて広がるように(To allow the back to lengthen and widen)」といったものです。これらは、プライマリーコントロールを促進するための具体的な指示となります。運動学習の分野では、内部焦点(自身の身体の動きに注意を向ける)よりも外部焦点(動きの結果や環境に注意を向ける)の方が運動パフォーマンスや学習効率を高めるという知見があります (Wulf, Shea, & Park, 2001)。アレクサンダーテクニークのディレクションは、身体の「状態」や「関係性」への意識的な方向づけであり、力みを伴う内部焦点とは区別されるべきですが、意識的な指示が身体の組織化に影響を与えるという点で共通の原理が働いている可能性があります。
- Wulf, G., Shea, C. H., & Park, J. H. (2001). Attention and motor performance: preferences for and advantages of an external focus. Research Quarterly for Exercise and Sport, 72(4), 335-344.
2.2.3 演奏中の具体的なインヒビションとディレクションの例
サックス演奏中にインヒビションとディレクションを活用する具体的な例を挙げます。
- 演奏開始前:
- インヒビション: 楽器を構えるという刺激に対して、いつものように急いでアンブシュアを作り、息を吸い込もうとする習慣的な反応を抑制する。「まだ構えない」「まだ吹かない」と一旦停止する。
- ディレクション: 「首を自由に」「頭を前方と上方へ」「背中が伸びて広がるように」「肩が楽に下りるように」と、プライマリーコントロールを促すディレクションを心の中で唱える。そして、その状態が整うのを待ってから、静かに楽器を構え、アンブシュアを形成し、呼吸を始める。
- 難しいパッセージや跳躍がある箇所:
- インヒビション: その箇所に差し掛かると無意識に身体を固めたり、呼吸を浅くしたり、指に力を込めすぎたりする習慣的な反応を予測し、それを「しない」と決める。
- ディレクション: 身体全体のバランスを保ちつつ、「首は自由なまま」「指は軽く、必要な分だけ動く」「呼吸はスムーズに流れ続ける」といった、その瞬間に特に意識したいディレクションを与える。
- 長時間の練習や本番で疲れを感じ始めた時:
- インヒビション: 疲労感からくる姿勢の崩れや、力みで音を出そうとする反応を抑制する。一度演奏を止める勇気もインヒビションの一つ。
- ディレクション: 再びプライマリーコントロールに意識を戻し、「頭が支えられ、脊柱が伸びる」「座骨でしっかり座る(または足裏でしっかり立つ)」「楽器の重さは身体全体で効率よく支える」など、持続可能な演奏のためのディレクションを行う。
インヒビションとディレクションは、一度習得すれば終わりというものではなく、演奏中常に、そして日常生活においても継続的に実践していくことで、より深く身体に浸透していきます。このプロセスを通じて、サックス奏者は自己の身体感覚を研ぎ澄まし、不必要な努力なしに、より自由で表現力豊かな演奏を実現できるようになります。
2.3 感覚の誤認識(Debauched Kinaesthesia)への対処
アレクサンダーテクニークにおいて、「感覚の誤認識(Debauched Kinaesthesia)」または「信頼できない感覚的評価(Unreliable Sensory Appreciation)」とは、自分自身の身体の状態や動きに関する感覚(固有受容感覚)が、客観的な現実とはズレてしまっている状態を指します。長年の習慣によって形成された不適切な身体の使い方が「普通」で「正しい」と感じられるようになり、その結果、本当に効率的でバランスの取れた状態が逆に「不自然」で「間違っている」と感じてしまうのです (Alexander, 1932)。
2.3.1 自身の感覚が常に正しいとは限らないことの理解
多くの人は、自分の感覚を絶対的なものとして信頼しがちです。しかし、固有受容感覚は、過去の経験や習慣、心理状態によって容易に影響を受け、歪められる可能性があります。例えば、猫背の姿勢が常態化している人は、意識して背筋を伸ばそうとすると、初めは「反りすぎている」「不自然だ」と感じることがあります。これは、脳が長期間にわたる猫背の感覚入力を「基準」として学習してしまったためです。
音楽家、特に高度な技術を要する楽器の奏者は、特定の筋肉群を酷使したり、不自然な姿勢を長時間維持したりすることが多く、感覚の誤認識に陥りやすいと言えます。熟練した音楽家であっても、自身の演奏姿勢や筋活動のレベルを正確に認識できていない場合があることが示唆されています。サックス奏者が「リラックスしている」と感じていても、実際には肩や顎に不要な力が入っていたり、呼吸が浅かったりすることは珍しくありません。この感覚のズレに気づかない限り、根本的な改善は難しいでしょう。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
2.3.2 客観的な視点を取り入れることの意義
感覚の誤認識に対処するためには、自身の主観的な感覚だけに頼るのではなく、客観的なフィードバックを取り入れることが不可欠です。アレクサンダーテクニークの教師は、まさにこの客観的な視点を提供する役割を担います。教師は、生徒の身体の使い方を観察し、言葉による指示やハンズオン(手を用いた穏やかなガイド)を通じて、生徒がよりバランスの取れた協調的な状態を体験できるように導きます。この体験は、しばしば生徒自身の「いつもの感覚」とは異なるため、初めは戸惑うかもしれません。しかし、この新しい感覚と、それによってもたらされる動きの容易さや快適さを繰り返し経験するうちに、感覚の再教育が進み、より信頼できる身体感覚が育まれていきます。
教師からの直接的なフィードバック以外にも、以下のような方法で客観的な視点を取り入れることができます。
- 鏡の使用: 演奏中の自分の姿を鏡で確認する。特に横からの視点は、頭や首の位置、背中の状態をチェックするのに有効です。
- 録画・録音: 自分の演奏を録画・録音し、後から客観的に見直す・聴き直す。映像は姿勢や動きの癖を、音声は音色の変化や呼吸の音などを捉えるのに役立ちます。
- 信頼できる同僚や指導者からの意見: 他の演奏家や指導者に演奏を見てもらい、身体の使い方に関するフィードバックを求める。
これらの客観的な情報を、自分自身の感覚と照らし合わせることで、感覚の誤認識に気づき、それを修正していくプロセスが始まります。英国のある研究機関に所属するJones (2011) は、アレクサンダーテクニークのレッスンが、慢性的な背中の痛みを持つ患者の自己効力感を高め、痛みの管理能力を向上させることを報告していますが、これは身体感覚の再教育と、それによる行動変容が関与している可能性を示唆しています。サックス奏者にとっても、信頼できる身体感覚を養うことは、技術的な課題を克服し、より自由な音楽表現へと繋がる重要なステップです。
2.4 エンド・ゲイニング(結果至上主義)からの解放
エンド・ゲイニング(End-gaining)とは、目的(エンド)を達成することに性急に意識が向きすぎ、そのための手段やプロセス(ミーンズ・ウェアバイ)を疎かにしてしまう傾向を指すアレクサンダーテクニークの用語です (Alexander, 1932)。結果を求めるあまり、どうやってそれを行うかという身体の使い方や思考の質を無視してしまうと、多くの場合、不必要な緊張や非効率な努力を伴い、長期的には望ましくない結果を招くことになります。
2.4.1 結果にとらわれずプロセスを重視する
アレクサンダーテクニークでは、望ましい結果を得るためには、まずその結果に至るまでの「手段」、すなわち自分自身の心身の使い方を改善することが最も重要であると考えます。これは「ミーンズ・ウェアバイ(Means-whereby)」の重視と呼ばれます。プロセスを丁寧に見直し、インヒビションとディレクションを用いて身体の使い方を建設的に方向づけることで、結果は自然とついてくる、というアプローチです。
目標設定や達成意欲は、人間の活動において重要な動機付けとなりますが、過度な結果志向は、特に複雑なスキルを要する音楽演奏のような分野では逆効果になることがあります。心理学における「自己決定理論(Self-Determination Theory)」では、外的な報酬や結果(例:コンクールでの成功、他人からの賞賛)よりも、活動そのものから得られる内発的な動機付け(例:演奏する喜び、自己成長の実感)の方が、持続的なエンゲージメントやウェルビーイングに繋がるとされています (Ryan & Deci, 2000)。エンド・ゲイニングからの解放は、この内発的な動機付けを高め、演奏行為そのものに集中し、楽しむことを可能にします。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being. American Psychologist, 55(1), 68-78.
2.4.2 サックス演奏におけるエンド・ゲイニングの具体例とその影響
サックス演奏においてエンド・ゲイニングが顕著に現れる具体例と、その影響は以下の通りです。
- 「とにかく高い音を出す!」: 高音域を出すことだけに意識が集中し、アンブシュアを過度に締め付けたり、首や肩に力を込めて無理やり息を押し込もうとしたりする。
- 影響: 音が詰まる、音程が不安定になる、喉を痛める、身体全体の緊張が増す。
- 「この難しいパッセージを速く正確に弾く!」: 指を速く動かすことやミスタッチをしないことだけを考え、手首や腕を固め、呼吸を止めてしまう。
- 影響: 動きが硬直し、かえってミスが増える、音楽的な流れが失われる、腱鞘炎などのリスクが高まる。
- 「もっと大きな音で!」: 音量を出すことだけを目標にし、力任せに息を吹き込んだり、身体を不必要に硬直させたりする。
- 影響: 音色が荒れる、響きが失われる、身体的な疲労が大きい、音楽的なニュアンスが表現できない。
- 「本番で絶対に成功させる!」: 結果に対する過度なプレッシャーから、身体がこわばり、普段通りのパフォーマンスができなくなる。
- 影響: 演奏の自由度が失われる、あがり症を引き起こす、音楽を楽しむことができない。
これらのエンド・ゲイニング的なアプローチは、短期的には一時的に目的を達成できたように見えるかもしれませんが、長期的には身体への負担を増やし、技術的な限界を作り、音楽表現の幅を狭めてしまいます。アレクサンダーテクニークを学ぶことは、このような結果至上主義の罠から抜け出し、「どのように(How)」演奏するのか、そのプロセスにおける自分自身の使い方に意識を向けることを促します。例えば、「高い音を出す」という結果ではなく、「首を自由に保ち、頭を前方と上方へ方向づけ、背中を長く保ちながら、横隔膜のサポートを使って楽に息を流す」というプロセスに集中します。そうすることで、身体はより協調的に機能し、結果として、より楽に、より豊かな音質の高音を出すことが可能になるのです。このプロセス重視の姿勢は、演奏技術の向上だけでなく、演奏する喜びや音楽との深いつながりを育む上でも極めて重要です。
3章 サックス演奏におけるアレクサンダーテクニークの具体的な活用ポイント
アレクサンダーテクニークの基本原則を理解した上で、本章ではサックス演奏の様々な側面において、具体的にどのようにその考え方を活用できるのかを掘り下げていきます。演奏姿勢の最適化から、呼吸法、アンブシュア、運指、そして楽器と身体の一体感の醸成に至るまで、アレクサンダーテクニークはサックス奏者が直面する多くの物理的な課題に対して、効果的な解決の糸口を提供します。これらの活用ポイントを実践することで、奏者はより少ない労力で、より質の高い演奏を実現し、音楽表現の可能性を広げることができます。
3.1 演奏姿勢の最適化
サックス演奏における姿勢は、音質、呼吸、持久力、そして音楽表現の自由度に直接的な影響を与えます。アレクサンダーテクニークは、「正しい姿勢」という固定的な形を求めるのではなく、常に変化し適応するダイナミックなバランスの中で、身体が最も効率的に機能する状態を見出すことを目指します。
3.1.1 座奏時における無理のないバランスの発見
多くのサックス奏者は、吹奏楽団やビッグバンド、あるいは練習時に座って演奏します。座奏時には、以下の点にアレクサンダーテクニークの視点を活用できます。
- 坐骨への意識: 椅子の座面に両方の坐骨(お尻の下部にある骨の突起)が均等に体重を乗せていることを確認します。これにより、骨盤が安定し、その上に脊柱が楽に伸びる土台ができます。F.M.アレクサンダーは、身体の支持基盤の重要性を強調しており、座奏における坐骨は立奏時の足裏と同様の役割を果たします (Alexander, 1932)。
- プライマリーコントロールの維持: 頭が首の上で自由にバランスし、脊柱全体が伸びやかである状態を意識します。特に、腰椎が過度に反ったり丸まったりしないよう、骨盤の上で胴体が楽に伸びている感覚を求めます。
- 足の配置: 両足は床にしっかりと着け、膝は股関節よりわずかに低いか同じ高さになるように椅子の高さを調整します。これにより、下半身の安定が得られ、上半身の自由度が増します。
- 譜面台の高さと距離: 譜面を見るために首を不自然に曲げたり、前かがみになったりしないよう、譜面台の高さと距離を適切に調整します。これは、プライマリーコントロールを阻害しないために重要です。
ある研究では、座っているときの姿勢が呼吸機能に影響を与えることが示されており、特に前かがみの姿勢は肺活量を減少させる可能性があります (Lin, et al., 2006)。アレクサンダーテクニークを通じて無理のないバランスを見つけることは、呼吸の効率を高め、長時間の演奏における疲労を軽減するのに役立ちます。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Lin, F., Parthasarathy, S., Taylor, S. J., Pucci, D., Hendrix, R. W., & Makhsous, M. (2006). Effect of different sitting postures on lung capacity, expiratory flow, and lumbar lordosis. Archives of Physical Medicine and Rehabilitation, 87(4), 504-509.
3.1.2 立奏時における安定した重心と動きやすさの追求
立奏は、特にソリストやジャズミュージシャンにとって一般的な演奏形態です。立奏時には、よりダイナミックな動きが求められるため、安定した重心と動きやすさの両立が重要になります。
- 足裏への意識と地面とのつながり: 体重が両足裏に均等に分散され、地面からのサポートを感じられるようにします。足は肩幅程度に自然に開き、膝は軽く緩めてロックしないようにします。これにより、衝撃を吸収しやすくなり、身体全体のバランスが向上します。
- 重心の感覚: 身体の重心(一般的にはおへその少し下あたり)を意識し、それが支持基底面(両足で作られるエリア)のほぼ中央に安定している感覚を求めます。過度に前傾したり後傾したりしないように注意します。
- プライマリーコントロールのダイナミズム: 立っているときも、頭・首・背骨の伸びやかな関係性は重要です。しかし、それは固定されたものではなく、演奏中の身体の動き(例えば、音楽に合わせて軽く揺れるなど)に伴って、常に微調整されるダイナミックなものです。
- 楽器の構え方: サックスの重さをストラップで首だけに集中させるのではなく、身体全体でバランスよく支える意識を持ちます。これについては次の3.1.3で詳述します。
バイオメカニクスの観点から、立位姿勢の安定性は、重心の位置と支持基底面の広さ、そして身体各部の協調的なアライメントによって決まります。アレクサンダーテクニークは、これらの要素を最適化するための内的な気づきとコントロールを養うのに役立ちます。
3.1.3 ストラップの調整と身体への負担軽減
サックス、特にテナーやバリトンサックスはかなりの重量があり、不適切なストラップの使用や調整は、首、肩、背中に大きな負担をかけ、痛みや演奏の質の低下を引き起こす可能性があります。
- ストラップの種類の選択: 様々なデザインのストラップ(ネックストラップ、ショルダーハーネスタイプなど)があり、それぞれ体への荷重分散の仕方が異なります。自分の体型や演奏スタイル、楽器の種類に合わせて、最も負担が少なく、かつ身体の自由を妨げないものを選ぶことが重要です。例えば、首への負担を軽減したい場合は、肩や背中に荷重を分散するハーネスタイプのストラップが有効な場合があります。ある研究では、異なる楽器支持システムが音楽家の筋活動や快適性に与える影響を比較しており、適切なサポートの重要性が示唆されています。
- 適切な長さの調整: ストラップの長さは、マウスピースが自然に口元に来る位置に調整します。短すぎると首が前に引っ張られ、頭が下がりやすくなりプライマリーコントロールが阻害されます。長すぎると楽器を支えるために腕や肩に余計な力が入ったり、前かがみになったりしやすくなります。アレクサンダーテクニークの視点では、ストラップはあくまで楽器を「吊るす」補助であり、奏者がその重さによって「引き下げられる」のではなく、むしろ頭が上方へ解放されるのを助けるように機能すべきです。
- 荷重分散の意識: ストラップが首の一点にかかるのではなく、より広い範囲(例えば肩甲骨周りや背中全体)で楽器の重さを感じ、支える意識を持つことが役立つ場合があります。これは、身体全体のつながりの中で楽器を統合する感覚を養います。
- 定期的な見直し: 身体の状態や演奏する状況によって、最適なストラップの長さや種類は変わることがあります。定期的に見直し、必要であれば調整することが大切です。
アレクサンダーテクニークを実践するサックス奏者は、ストラップを単なる楽器の付属品としてではなく、自身の身体システムと楽器とを調和させるための重要なインターフェースとして捉え、その調整と使い方に意識的になることで、身体への負担を大幅に軽減し、より自由で快適な演奏へと繋げることができます。
3.2 呼吸法の自然な改善
呼吸はサックス演奏の生命線であり、音質、音量、フレージング、持久力の全てに深く関わっています。アレクサンダーテクニークは、特定の呼吸法を「教える」のではなく、身体全体の不必要な緊張を取り除くことで、本来備わっている自然で効率的な呼吸メカニズムが妨げられずに機能するように導きます。これにより、サックス奏者はより楽に、深く、コントロールされた呼吸を獲得することができます。
3.2.1 胸郭と横隔膜の自由な動きの促進
効率的な呼吸の鍵となるのは、胸郭(肋骨、胸骨、胸椎からなるカゴ状の構造)と横隔膜(胸腔と腹腔を分けるドーム状の筋肉)の自由な動きです。
- 胸郭の可動性: 吸気時には、肋間筋の働きによって肋骨が外側および上方に動き、胸郭全体が前後・左右・上下に拡大します。この胸郭の三次元的な広がりが、肺が十分に膨らむためのスペースを作り出します。しかし、肩や背中、胸部の筋肉が慢性的に緊張していると、この胸郭の動きが制限され、呼吸が浅くなります。アレクサンダーテクニークでは、プライマリーコントロールを整え、胴体が「伸びて広がる(lengthen and widen)」ディレクションを用いることで、胸郭周りの不必要な緊張を解放し、その結果として肋骨がより自由に動けるように促します。
- 横隔膜の役割: 横隔膜は主要な呼吸筋であり、収縮すると下方に下がり、胸腔の容積を増やして空気を肺に引き込みます。弛緩すると上方のドーム状に戻り、肺から空気を押し出すのを助けます。腹部の過度な緊張(例えば、お腹を不必要に固める、引き込めるなど)は、横隔膜の下降を妨げ、効率的な呼吸を阻害します。アレクサンダーテクニークは、腹部を含む体幹全体の不要な固定を解放することで、横隔膜が拘束されずに機能するのを助けます。
生理学的な研究によれば、呼吸運動は複雑な神経筋制御下にあり、姿勢や身体全体の緊張状態に大きく影響されることが知られています (Hodges, Gandevia, & Richardson, 2001)。アレクサンダーテクニークの実践は、この神経筋システムがより調和的に働くための好ましい条件を作り出すと言えるでしょう。
- Hodges, P. W., Gandevia, S. C., & Richardson, C. A. (2001). Contractions of the human diaphragm during postural adjustments. The Journal of Physiology, 535(Pt 3), 933–942.
3.2.2 効率的で楽な吸気と呼気の実現
アレクサンダーテクニークを通じて身体全体の協調性が改善されると、吸気も呼気もより効率的で楽になります。
- 楽な吸気: 身体が不必要に固まっていない状態では、横隔膜がスムーズに下降し、胸郭が抵抗なく広がるため、最小限の努力で十分な量の空気を吸い込むことができます。「息を吸い込もう」と力むのではなく、身体が自然に空気を受け入れるのを「許す」感覚です。F.M.アレクサンダーは、呼吸はコントロールしようとするのではなく、適切な身体の使い方の「結果」として自然に起こるべきだと強調しました (Alexander, 1932)。
- コントロールされた呼気: サックス演奏における呼気は、アンブシュアを通してリードを振動させ、音を持続させるために、安定した空気の流れを必要とします。アレクサンダーテクニークは、息を「押し出す」というよりも、身体全体の弾力性とサポートを使って、必要な量の息をスムーズに「解放する」感覚を養います。腹筋群は呼気時に活動しますが、それは固めるのではなく、横隔膜の弛緩と協調して、内臓を支えながら空気の流れを調整するダイナミックな働きです。
音楽家、特に管楽器奏者の呼吸機能に関する研究は数多く行われており、効率的な呼吸パターンが演奏パフォーマンスと持久力に寄与することが示されています。例えば、ある研究では、特定の呼吸訓練が管楽器奏者の肺機能と演奏の質を向上させる可能性が報告されています (Sapienza, Wheeler, & Teston, 2002)。アレクサンダーテクニークは、特定の訓練法とは異なりますが、身体全体のコーディネーションを改善することで、これらの呼吸機能を根本から支えるアプローチと言えます。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
- Sapienza, C. M., Wheeler, K., & Teston, A. (2002). Respiratory muscle strength training: functional outcomes in a musician. Journal of Voice, 16(3), 336-342.
3.2.3 ブレスコントロールと身体の協調
サックス演奏における高度なブレスコントロール(息の支え、アパッジョとも呼ばれる)は、単に肺活量が多いとか、腹筋が強いといったことだけでは達成できません。それは、呼吸に関わる全ての筋肉群(横隔膜、肋間筋、腹筋群、背筋群など)が、身体全体のバランスと調和の中で、タイミングよく協調して働くことによって初めて可能になります。
アレクサンダーテクニークは、この「身体全体の協調」という視点からブレスコントロールにアプローチします。
- 「支え」の誤解を解く: しばしば「息を支える」という指示が、腹部を固めたり、胸を不自然に張り出したりといった、部分的な力みとして誤解されることがあります。アレクサンダーテクニークでは、このような固定的な「支え」ではなく、プライマリーコントロールが整い、胴体が自由に伸び広がることによって生まれる、身体全体の弾力的でダイナミックなサポートを追求します。
- 演奏中の呼吸の自由: 難しいパッセージや大きな音を出す際に、無意識に呼吸を止めたり、浅くしたりする習慣は、身体の協調性を損ないます。インヒビションとディレクションを用いて、どんな状況でも呼吸がスムーズに流れ続けることを意識します。
- フレージングと呼吸: 音楽的なフレーズの自然な流れは、呼吸の流れと密接に関連しています。身体が自由に機能することで、フレージングに合わせた柔軟なブレスコントロールが可能になり、より歌心のある表現が生まれます。
シカゴ大学の音声生理学者は、効率的な発声や管楽器演奏における呼吸は、局所的な筋力よりも、呼吸器系全体の弾性と、それを制御する神経系の洗練された協調にかかっていると述べています。アレクサンダーテクニークは、まさにこの全身的な協調性を高め、サックス奏者がより自然で音楽的なブレスコントロールを身につけるための強力な助けとなるでしょう。
3.3 アンブシュア、顎、舌の緊張緩和
アンブシュア(マウスピースとリードに対する口の形と圧力)、顎、舌のコントロールは、サックスの音色、イントネーション、アーティキュレーションを決定づける極めて重要な要素です。しかし、これらの部分は非常にデリケートであり、過度な緊張や不適切な使い方は、演奏の質を著しく低下させるだけでなく、痛みや機能障害を引き起こす可能性もあります。アレクサンダーテクニークは、これらの部分の不必要な緊張を特定し解放することで、より自由で効率的なコントロールを可能にします。
3.3.1 必要最小限の力で形成するアンブシュア
理想的なアンブシュアは、リードを最適に振動させ、望ましい音色とイントネーションを生み出すために、必要最小限の圧力と、適切にバランスの取れた筋肉の活動によって形成されます。
- 「締めすぎ」からの解放: 多くの奏者、特に初心者は、音を出そうとして、あるいは音程をコントロールしようとして、無意識のうちにアンブシュアを過度に締め付けてしまいます。これは、硬く、響きの乏しい音色や、高めのピッチ、そして唇の早期疲労の原因となります。アレクサンダーテクニークでは、まず「締め付ける」という習慣的な反応をインヒビット(抑制)し、ディレクションを用いて顔面全体の筋肉(特に口輪筋や頬筋)が不必要に固まらないように意識します。
- 下唇のクッション: 下唇はリードに対してクッションの役割を果たしますが、噛みすぎたり、巻き込みすぎたりすると、リードの振動を妨げます。アレクサンダーテクニークの視点では、下顎が首と頭の関係性の中で自由にぶら下がっている状態を意識し、その結果として下唇が自然にリードに触れる感覚を求めます。
- プライマリーコントロールとの関連: 顔面や口周りの緊張は、しばしば首や肩の緊張と連動しています。プライマリーコントロールを整え、頭が自由にバランスし、首が解放されると、顎や唇周りの筋肉もリラックスしやすくなります。
Mornell & Wulf (2019) の研究では、音楽演奏における運動学習において、内部焦点(例:「唇をしっかり締めろ」)よりも外部焦点(例:「豊かな音を部屋の奥に響かせろ」)の方が効果的であることが示唆されています。アレクサンダーテクニークのアプローチは、アンブシュアを直接的に「作る」というよりは、全身の協調性を整え、その結果として望ましいアンブシュアが「現れる」のを助けるという点で、この外部焦点的なアプローチと親和性があります。
- Mornell, A., & Wulf, G. (2019). The effects of internal and external focus of attention on skilled music performance. Musicae Scientiae, 23(1), 5-17.
3.3.2 顎関節と舌の柔軟性の向上
顎関節(Temporomandibular Joint, TMJ)と舌の柔軟性は、アンブシュアの安定性、正確なアーティキュレーション、そしてヴィブラートなどの表現技法にとって不可欠です。
- 顎関節の自由: 顎を固める癖は、音色の硬直化、イントネーションの問題、さらには顎関節症のリスクにも繋がります。アレクサンダーテクニークでは、頭が首の上で自由にバランスし、下顎がその頭から楽にぶら下がっているような感覚を促します。これにより、顎関節周りの筋肉(咬筋、側頭筋など)の不必要な緊張が解放され、演奏中の顎の微細な動きがスムーズになります。
- 舌の解放: 舌はアーティキュレーション(タンギング)だけでなく、口腔内の容積を変化させて音色や音程を調整する役割も担っています。舌根部(舌の奥の方)が緊張して硬くなっていると、喉が締まったような苦しい音になったり、タンギングが重くなったりします。アレクサンダーテクニークのレッスンでは、しばしば舌や喉の解放に注意が向けられ、舌が口の中でリラックスして自然な位置にあること、そして必要に応じて自由に動けることを目指します。
顎関節機能障害(TMD)は音楽家、特に管楽器奏者や弦楽器奏者の間で比較的多く見られる問題です (Rodrigues, et al., 2014)。アレクサンダーテクニークによる顎周りの緊張緩和は、このような問題の予防や改善に寄与する可能性があります。
- Rodrigues, A., de Pinho, J. C., de Andrade, A. C. F., & Berzin, F. (2014). Prevalence of temporomandibular dysfunction in a sample of musicians of the City of Recife Symphony Orchestra. Brazilian Dental Science, 17(1), 67-73.
3.3.3 タンギングにおける無駄な力みの排除
タンギングは、舌を使って空気の流れを断続させることで、音の始まりを明確にするテクニックです。効率的なタンギングは、最小限の動きと力で、クリアかつ迅速に行われるべきです。
- 舌先の軽いタッチ: タンギングは、舌先(またはその少し後ろ)がリードの先端(またはその僅か手前)に軽く触れて離れる動きです。舌全体を大きく動かしたり、力強く押し付けたりする必要はありません。アレクサンダーテクニークの視点では、舌の動きを他の身体部分の緊張から切り離し、独立して軽快に機能させることを目指します。
- 顎や喉の固定を避ける: タンギングの際に無意識に顎を一緒に動かしてしまったり、喉を締めたりする癖があると、音が不明瞭になったり、スピードが上がらなかったりします。インヒビションを用いてこれらの付随的な動きを抑制し、ディレクションによって顎と喉の自由を保ちながら舌だけを動かす意識を持ちます。
- 呼吸との協調: タンギングはあくまで空気の流れをコントロールする手段であり、安定した呼気のサポートが不可欠です。身体全体の協調性が保たれた楽な呼吸の中で行われるタンギングは、より音楽的で表現力豊かになります。
音声科学の研究では、舌の巧緻な運動制御が明瞭な発話に不可欠であることが示されています (Kent, 2000)。同様の原理は、管楽器のタンギングにも当てはまると考えられ、アレクサンダーテクニークによる舌の解放と効率的な使い方への気づきは、サックス奏者のアーティキュレーション能力を向上させる上で有益です。
- Kent, R. D. (2000). Research on speech motor control and its disorders: A review and prospective. Journal of Communication Disorders, 33(5), 391-428.
3.4 運指の効率化と手の自由度の向上
サックスの複雑なキーメカニズムを正確かつ迅速に操作するためには、指、手、手首、そして腕全体の自由で協調の取れた動きが不可欠です。アレクサンダーテクニークは、これらの部分の不必要な緊張を解放し、より効率的で流れるような運指をサポートします。
3.4.1 指、手首、腕の不必要な緊張の解放
サックス演奏における運指の問題の多くは、指や手だけでなく、手首、前腕、上腕、さらには肩や背中の緊張に起因しています。
- 指の独立性と軽快さ: 各指は、他の指や手の他の部分から不必要に影響されることなく、独立して軽快に動くことが理想です。しかし、実際には、特定の指を動かす際に他の指も一緒に力んでしまったり、手のひら全体を固めてしまったりすることがあります。アレクサンダーテクニークでは、まず「固める」「力む」という習慣をインヒビットし、指が骨格構造に沿って楽に動くことをディレクトします。
- 手首の柔軟性: 手首が硬直していると、指の動きが制限され、滑らかなパッセージワークが困難になります。特にオクターブキーの操作や、テーブルキー(左手小指で操作するキー群)と右手キーの間の素早い移行などでは、手首の柔軟な使い方が求められます。アレクサンダーテクニークは、手首が前腕と手の間の自由な「関節」として機能し、固定されないように意識することを促します。
- 腕全体のつながりとサポート: 指や手の動きは、腕全体、そして肩甲帯を介して体幹へと繋がっています。腕の重さが肩から楽にぶら下がり、指先までのエネルギーがスムーズに伝わるような感覚を養います。肩をすくめたり、肘を不自然に張り出したり、あるいは脇を締めすぎたりする癖は、腕全体の自由な動きを妨げ、指のパフォーマンスに悪影響を与えます。プライマリーコントロールを整えることで、腕は胴体からより自由に動きやすくなります。
3.4.2 滑らかで正確なフィンガリングのサポート
アレクサンダーテクニークを通じて指、手、腕の不必要な緊張が解放されると、フィンガリングはより滑らかで正確になります。
- キーへの最小限の圧力: キーを操作するのに必要な力は、実際にはごくわずかです。過度な力でキーを叩きつけるように押さえると、ノイズの原因になるだけでなく、指や手を疲れさせ、動きを遅くします。アレクサンダーテクニークでは、キーに「触れる」「軽く押さえる」という感覚を養い、必要最小限の力でキーを確実に閉じることを目指します。
- 動きの経済性: 指の動きを最小限に抑え、キーから指を大きく離しすぎないようにすることで、より速く効率的な運指が可能になります。これは、指がリラックスしていて初めて可能になるコントロールです。
- 左右の手の協調: サックスの運指は、左右の手が独立しつつも協調して動くことを要求します。例えば、C#からDへの移行(左手中指を離し、右手人差し指、中指、薬指を押さえる)のような動きでは、両手のタイミングが重要です。身体全体のバランスが整い、腕や手が自由に機能することで、このような複雑な協調運動もスムーズに行えるようになります。
- 難しいパッセージへの対処: 速いパッセージや複雑な運指が出てくると、無意識に力んでしまうことがあります。このような時こそ、インヒビションを用いて「力まない」ことを選択し、ディレクションによってプライマリーコントロールと腕や手の自由を再確認することが重要です。これにより、パニックにならず、落ち着いて対処する能力が養われます。
運動学習の分野では、「quiet eye」と呼ばれる、動作開始前の視覚的焦点の安定がパフォーマンス向上に寄与するという知見があります (Vickers, 2007)。これは直接的には運指に関係しませんが、アレクサンダーテクニークによる自己認識の高まりと落ち着いた状態の維持は、同様に集中力を高め、複雑な運動タスクの遂行を助ける可能性があります。サックス奏者が身体の不必要なノイズを減らし、動きの質を高めることで、フィンガリングの精度と音楽性は確実に向上するでしょう。
- Vickers, J. N. (2007). Perception, cognition, and decision training: The quiet eye in action. Human Kinetics.
3.5 楽器と身体の一体感の醸成
アレクサンダーテクニークは、サックスを単に「操作する対象」としてではなく、奏者の身体の延長線上にあるものとして捉え、楽器と身体が調和し一体となる感覚を育むことを目指します。この一体感が深まることで、演奏はより自然で直感的になり、音楽表現の幅も広がります。
3.5.1 楽器の重さを効率的に分散させる構え方
サックス、特に大型のものはかなりの重量があり、その重さを非効率的に支えていると、身体の特定の部分に過度な負担がかかり、痛みやパフォーマンスの低下に繋がります。
- 身体全体で支える意識: 楽器の重さを首や肩だけで支えようとするのではなく、足裏から地面のサポートを感じ、それが脚、骨盤、脊柱を伝わって、最終的に楽器を支えるポイント(ストラップ、指、身体との接触点)へと繋がっていくような、全身的なサポートシステムを意識します。プライマリーコントロールが整っていると、この力の伝達がスムーズに行われ、楽器の重さが一点に集中するのを防ぎます。
- ストラップの役割の再認識: 前述(3.1.3)の通り、ストラップは楽器を「吊るす」ためのものですが、それは身体がその重さによって下方に引っ張られることを意味しません。むしろ、ストラップのサポートがあるからこそ、頭部は上方へ、胴体は伸びやかに解放される、という逆の方向性を意識することが重要です。
- 楽器とのバランスポイントの発見: 楽器を構えたときに、自分自身の身体と楽器とが一体となって、最も安定し、かつ動きやすいバランスポイントを見つけることが大切です。これは、固定的な位置ではなく、演奏中の動きに応じて常に微調整されるダイナミックなものです。鏡を使ったり、アレクサンダーテクニーク教師の助けを借りたりしながら、このバランスを探求します。
著名なアレクサンダーテクニーク教師でありヴィオラ奏者でもあった故ウィリアム・プリムローズは、楽器演奏における身体の使い方について多くの示唆を与えています。楽器の重さをどのように扱うかは、全ての楽器奏者にとって共通の課題であり、アレクサンダーテクニークはその解決に有効なアプローチを提供します。
3.5.2 身体全体を使った自然な演奏動作の促進
楽器と身体が一体化してくると、演奏動作はより自然で、身体全体を使った表現力豊かなものになります。
- 部分ではなく全体で動く: 例えば、ある音から別の音へ跳躍する際に、指先だけでなく、手首、腕、肩、さらには体幹からの動きが連動して行われるようになります。これにより、動きはより滑らかで力強くなり、音楽的な意図がダイレクトに音に反映されます。
- 音楽と身体の共鳴: 身体の不必要な緊張が解け、より自由に響くようになると、楽器の振動が身体にも伝わりやすくなり、音楽と身体が共鳴するような感覚が生まれることがあります。この感覚は、演奏の喜びを深めるとともに、音色や表現のニュアンスを豊かにします。
- 表現の自由度の拡大: 身体が自由に使えるようになると、ダイナミクスの変化、アーティキュレーションの多様性、フレージングの歌い方など、音楽的な表現の選択肢が格段に増えます。身体的な制約から解放されることで、奏者はより大胆に、そして繊細に音楽を創造することができるようになります。
神経科学者であるアントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio)は、感情、意思決定、そして身体感覚が密接に結びついていることを「ソマティック・マーカー仮説」として提唱しています (Damasio, 1994)。音楽演奏は高度に情動的な活動であり、身体感覚の洗練は、より深い感情表現や音楽理解に繋がる可能性があります。アレクサンダーテクニークを通じて育まれる楽器と身体の一体感は、まさにこの身体感覚を研ぎ澄まし、奏者の音楽的経験を豊かにするものです。
- Damasio, A. R. (1994). Descartes’ error: Emotion, reason, and the human brain. Putnam.
このように、アレクサンダーテクニークの原則をサックス演奏の具体的な側面に適用していくことで、奏者は身体的な困難を克服し、より自由で表現力豊かな音楽世界の扉を開くことができるでしょう。
4章 アレクサンダーテクニークがもたらすサックス演奏の質の変化
アレクサンダーテクニークを継続的に実践することは、サックス奏者の身体の使い方を根本から見直し、その結果として演奏の質に多岐にわたる肯定的な変化をもたらします。本章では、音質の向上と響きの深化、音楽表現力の拡大、演奏持久力の向上と疲労の軽減、そして精神的な安定と集中力の向上という4つの側面から、アレクサンダーテクニークがサックス演奏にもたらす具体的な変化について考察します。これらの変化は、奏者がより高いレベルの音楽的達成感を得るための重要なステップとなります。
4.1 音質の向上と響きの深化
音質はサックス奏者にとって最も重要な関心事の一つであり、アレクサンダーテクニークは、よりクリアで豊かな、そして響きの深い音色を実現するための土壌を育みます。
4.1.1 よりクリアで豊かな音色の実現
アレクサンダーテクニークによって身体全体の不必要な緊張が解放されると、特に呼吸器系やアンブシュアに関連する筋肉がより自由に、かつ協調して機能するようになります。
- 呼吸の質の向上: 3.2で詳述したように、胸郭と横隔膜の自由な動きが促進されることで、より深く安定した息の流れが生まれます。この豊かでコントロールされた空気の流れは、リードを効率的に振動させ、濁りのないクリアな音質の基盤となります。
- アンブシュアの最適化: 3.3.1で述べた通り、必要最小限の力で形成されるアンブシュアは、リードの自然な振動を最大限に引き出します。過度な締め付けや不必要な力みがなくなると、音の芯が明確になり、倍音豊かな温かい音色が得られやすくなります。
- 喉や舌の解放: 喉の奥や舌根部の緊張は、音がこもったり、響きが浅くなったりする主な原因の一つです。アレクサンダーテクニークによってこれらの部分が解放されると、声道を共鳴腔としてより効果的に使えるようになり、音の通りが良く、開放的で豊かな響きが生まれます。
著名なアレクサンダーテクニーク教師でありフルート奏者でもあったペドロ・デ・アルカンタラ(Pedro de Alcantara)は、その著作 “Indirect Procedures: A Musician’s Guide to the Alexander Technique” の中で、身体の使い方が音色に直接影響を与えることを強調し、アレクサンダーテクニークがいかにしてより自由な発音と豊かな音響を可能にするかを詳述しています (de Alcantara, 1997)。
- de Alcantara, P. (1997). Indirect procedures: A musician’s guide to the Alexander Technique. Oxford University Press.
4.1.2 音の共鳴と身体の使い方の関係
音の共鳴は、楽器本体だけでなく、奏者の身体、そして演奏空間全体との相互作用によって生まれます。アレクサンダーテクニークは、奏者の身体をより効果的な共鳴体にするのに役立ちます。
- 身体内部の共鳴腔の活用: 口腔、咽頭腔、鼻腔、そして胸腔といった身体内部の空間は、音を共鳴させる上で重要な役割を果たします。身体の不必要な緊張が解け、特に頭頸部や胴体が自由に伸び広がることで、これらの共鳴腔が最大限に活用され、音に深みと豊かさが増します。
- 骨伝導の促進: 音の振動は空気伝導だけでなく、骨伝導によっても身体に伝わります。リラックスしてバランスの取れた身体は、楽器からの振動をより効率的に受け取り、増幅することができます。この身体的な共鳴感覚は、奏者自身の音に対するフィードバックを高め、より繊細な音色のコントロールを可能にします。
- 楽器との一体感: 3.5で述べたように、楽器と身体が一体化する感覚が深まると、奏者は楽器の振動特性をより敏感に感じ取り、それに応じた身体の使い方を直感的に見つけやすくなります。これにより、楽器の持つポテンシャルを最大限に引き出し、豊かな共鳴を生み出すことができます。
音声科学の分野では、歌手の声の響き(特に「歌手のフォルマント」と呼ばれる特徴的な周波数帯域の強調)が、声道の形状と共鳴特性の最適化によって生み出されることが知られています (Sundberg, 1987)。管楽器奏者にとっても、身体という共鳴システムをいかに効率よく使うかは、音の響きを深める上で同様に重要であり、アレクサンダーテクニークはそのための具体的な道筋を示してくれます。
- Sundberg, J. (1987). The science of the singing voice. Northern Illinois University Press.
4.2 音楽表現力の拡大
アレクサンダーテクニークによって身体的な制約から解放されると、サックス奏者はより幅広い音楽表現の可能性を探求できるようになります。技術的な困難に気を取られることなく、音楽そのものに集中できるようになるため、よりニュアンス豊かで説得力のある演奏が可能になります。
4.2.1 ダイナミクスやアーティキュレーションの幅の広がり
ダイナミクス(音量の変化)とアーティキュレーション(音の形や繋ぎ方)は、音楽に表情と生命を与える重要な要素です。
- ダイナミックレンジの拡大: アレクサンダーテクニークによる効率的な呼吸と身体のサポートは、ピアニッシモ(非常に弱い音)からフォルティッシモ(非常に強い音)まで、より幅広いダイナミックレンジをコントロールする能力を高めます。特に、弱い音を持続させることや、強い音を力まずに響かせることは、身体全体の協調性が不可欠です。
- アーティキュレーションの多様性: 3.3.3で触れたタンギングの効率化に加え、舌やアンブシュア、そして息のコントロールがより洗練されることで、レガート(滑らかに繋げる)、スタッカート(短く切る)、アクセントなど、多様なアーティキュレーションを明確かつ音楽的に表現できるようになります。身体の自由度が増すことで、これらのテクニックをより繊細に、そして意図通りに使い分けることが可能になります。
音楽演奏における表現力は、単なる技術の正確さを超えたものであり、奏者の身体的・感情的な状態と深く結びついています。ある研究では、音楽家の身体的な動きの自由度が、聴衆に伝わる音楽表現の豊かさと関連している可能性が示唆されています (Davidson, 2005)。
- Davidson, J. W. (2005). Bodily communication in musical performance. In D. Miell, R. MacDonald, & D. J. Hargreaves (Eds.), Musical communication (pp. 215-238). Oxford University Press.
4.2.2 フレーズの自然な流れと音楽性の向上
音楽は時間芸術であり、個々の音の連なりであるフレーズが、どのように歌われ、形作られるかによって、その音楽性は大きく左右されます。
- 呼吸とフレージングの調和: アレクサンダーテクニークによって自然で効率的な呼吸が身につくと、音楽的なフレーズの長さに合わせた無理のないブレスコントロールが可能になります。これにより、フレーズが途中で途切れたり、息苦しくなったりすることなく、歌うように自然に流れるようになります。
- テンポとリズムの安定: 身体全体のバランスが整い、不必要な緊張がなくなると、テンポ感が安定し、リズムの正確さや躍動感も向上します。特に、インヒビションのスキルは、急いだり突っ込んだりする癖を抑制し、落ち着いて音楽の流れをコントロールするのに役立ちます。
- 音楽的意図の明確な伝達: 身体が自由になることで、奏者は自分の音楽的アイデアや感情を、より直接的かつ効果的に音として表現できるようになります。技術的な障壁が低くなることで、音楽の内面的な側面に深く没入し、それを聴き手に伝える力が向上します。
著名なヴァイオリニストであり教育者でもあったユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin)はアレクサンダーテクニークの熱心な実践者であり、その演奏と教育において、身体の調和と音楽表現の統合を追求しました。彼は「音楽は身体を通して流れなければならない」と述べ、アレクサンダーテクニークがその流れを解放する助けとなることを強調していました。
4.3 演奏持久力の向上と疲労の軽減
長時間の練習や演奏は、サックス奏者にとって身体的な負担が大きく、疲労や、場合によっては演奏関連の障害(PRMDs)を引き起こす可能性があります。アレクサンダーテクニークは、より効率的な身体の使い方を身につけることで、これらの問題を軽減し、演奏持久力を向上させるのに貢献します。
4.3.1 長時間演奏における身体的負担の軽減
アレクサンダーテクニークの核心は、不必要な筋緊張を特定し、それを手放すことです。これにより、同じ演奏を行う場合でも、身体にかかる全体的な負荷が軽減されます。
- 努力の経済化: 身体が協調して機能するようになると、特定の筋肉群への過度な依存がなくなり、最小限の努力で最大の効果を得られるようになります。「頑張る」のではなく、身体の自然なメカニズムを「許す」ことで、エネルギー消費が抑えられます。
- 負担の分散: 楽器の重さや演奏動作から生じる負荷が、身体の一部分に集中するのではなく、骨格構造を通じてより広範囲に分散されるようになります。特に、プライマリーコントロールが整うことで、頭、首、肩、背中にかかるストレスが軽減されます。
- 回復力の向上: 効率的な身体の使い方は、疲労の蓄積を遅らせるだけでなく、演奏後の身体の回復も早める可能性があります。
音楽家のPRMDsに関する研究では、不適切な姿勢や過度な筋緊張がリスクファクターとなることが一貫して指摘されています (Bragge, et al., 2006)。アレクサンダーテクニークは、これらのリスクファクターに対処するための教育的アプローチとして有効性が期待されています。
- Bragge, P., Bialocerkowski, A., & McMeeken, J. (2006). A systematic review of prevalence and risk factors for playing-related musculoskeletal disorders in musicians. Occupational Medicine, 56(1), 28-38.
4.3.2 演奏による怪我や不調の予防への貢献
アレクサンダーテクニークは治療法ではありませんが、不適切な身体の使い方のパターンを修正することで、演奏関連の怪我や不調(例:腱鞘炎、頸肩腕症候群、腰痛、顎関節症など)の根本的な原因にアプローチし、その予防に大きく貢献する可能性があります。
- 自己認識力の向上: 自分の身体がどのように動いているか、どこに不必要な緊張があるかといった自己認識力(アウェアネス)が高まることで、問題が深刻化する前に早期に気づき、対処することができます。
- 習慣の再教育: 長年かけて身についた非効率的な動きの習慣を、より健康的で持続可能なものへと再教育していきます。これは、単に症状を抑える対症療法ではなく、問題の再発を防ぐための根本的な取り組みです。
- ストレス対処能力の向上: 身体的な緊張と精神的なストレスは密接に関連しています。アレクサンダーテクニークは、身体的なリラックスを促すことで、精神的なストレスへの対処能力も高め、それが間接的に身体の不調の予防に繋がることがあります。
アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた音楽家が、演奏時の痛みや不快感が軽減したという報告は数多くあります。例えば、Cacciatore et al. (2011) は、アレクサンダーテクニークのレッスンが慢性的な腰痛を持つ人々の痛みと機能障害を改善することを示したランダム化比較試験の結果を報告しており、この研究は音楽家にも示唆を与えるものです。
- Cacciatore, T. W., Horak, F. B., & Henry, S. M. (2011). Improvement in automatic postural coordination following Alexander Technique lessons in a person with low back pain. Physical Therapy, 91(4), 565-578.
4.4 精神的な安定と集中力の向上
アレクサンダーテクニークは、身体的な側面に留まらず、奏者の精神的な状態にも深く影響を与えます。心と身体は不可分であるという考えに基づき、身体のバランスと調和が整うことで、精神的な安定と集中力の向上がもたらされます。
4.4.1 演奏時の過度な緊張や不安の緩和
多くの音楽家が直面する「あがり症(Stage Fright)」や演奏不安は、しばしば身体的な硬直や不調和な動きと結びついています。
- 「闘争・逃走反応」の低減: プレッシャーのかかる状況では、交感神経系が活性化し、「闘争・逃走反応」として身体がこわばり、心拍数が上がり、呼吸が浅くなることがあります。アレクサンダーテクニークのインヒビションとディレクションの実践は、このような自動的な生理的反応を意識的にコントロールし、より落ち着いた状態を保つのに役立ちます。
- 自己効力感の向上: 自分の身体をより良くコントロールできるようになるという経験は、自信と自己効力感を高めます。これにより、演奏に対する肯定的な見方が生まれ、不安感が軽減されることがあります。
- プロセスへの集中: 2.4で述べたエンド・ゲイニングからの解放は、結果に対する過度な執着を手放し、演奏のプロセスそのものに集中することを促します。この「今、ここ」への集中は、マインドフルネスの状態と類似しており、不安を和らげる効果があると考えられます。
音楽家の演奏不安に関する研究では、アレクサンダーテクニークや同様の心身技法が、不安症状の軽減に有効である可能性が示唆されています (Studer, et al., 2011)。
- Studer, R. K., Danuser, B., Hildebrandt, H., Arial, M., & Gomez, P. (2011). Effect of a home-based recorded neurofeedback training on music performance anxiety in musicians. NeuroReport, 22(12), 573-577. (この研究はニューロフィードバックに関するものですが、演奏不安に対する介入研究の一例です。)
4.4.2 演奏への没入感と自己認識の高まり
アレクサンダーテクニークを通じて心身の調和が深まると、奏者はより深く演奏に没入し、自己認識を高めることができます。
- フロー状態の促進: 身体的な障壁が取り除かれ、心身が一体となって機能することで、心理学でいう「フロー状態」(完全に集中し、活動に没入している状態)に入りやすくなります。この状態では、時間は忘れ去られ、演奏行為そのものが喜びとなります。
- 内的なフィードバックの鋭敏化: 身体感覚が研ぎ澄まされることで、自分の音や身体の状態に対する内的なフィードバックがより明確になります。これにより、演奏をリアルタイムで微調整し、より繊細な表現を行うことが可能になります。
- 自己との対話: アレクサンダーテクニークの実践は、自分自身の身体や心の働きを観察し、理解を深めるプロセスです。この内省的な作業は、奏者としての自己認識を高め、音楽を通じて自分自身を表現する力を養います。
アレクサンダーテクニークは、単にサックスを上手に演奏するためのテクニックではなく、奏者自身の心身の使い方を見つめ直し、より調和の取れたあり方を追求する教育的なプロセスです。その結果として得られる演奏の質の変化は、技術的な向上に留まらず、音楽家としての成長とウェルビーイング全体に寄与するものと言えるでしょう。
5章 アレクサンダーテクニーク実践における誤解と注意点
アレクサンダーテクニークは、そのユニークなアプローチゆえに、いくつかの誤解を招きやすい側面も持っています。また、効果的に学ぶためには注意すべき点も存在します。本章では、アレクサンダーテクニークを実践する上で生じがちな誤解を解き、より建設的な学びのための注意点を明確にすることで、サックス奏者がこのテクニークの恩恵を最大限に受けるための指針を示します。
5.1 即効性への過度な期待について
アレクサンダーテクニークに対して、「すぐに効果が出る魔法のテクニック」といった即効性を過度に期待することは避けるべきです。
5.1.1 継続的な意識と実践の必要性
アレクサンダーテクニークは、長年にわたって無意識のうちに培われてきた心身の習慣的な使い方を、意識的に変容させていくプロセスです。これは、一夜にして達成されるものではなく、継続的な意識と日々の実践を必要とします。
- 習慣の根深さ: 私たちの姿勢や動きのパターンは、神経系に深く刻み込まれており、それを変えるには時間と忍耐が必要です。F.M.アレクサンダー自身も、自身の問題を解決するのに約10年を要したと述べています (Alexander, 1932)。
- 「気づき」の積み重ね: レッスン中に新しい感覚や使い方を体験したとしても、それが日常的な習慣として定着するまでには、繰り返しその「気づき」を呼び起こし、意識的に選択し直す作業が求められます。
- 学習曲線: 新しいスキルを学ぶ際には、進歩が直線的ではないことを理解しておく必要があります。停滞期や後退したように感じる時期もあるかもしれませんが、それは学習プロセスの一部です。
アレクサンダーテクニーク教師の多くは、テクニークの効果を実感し始めるまでの期間は個人差が大きいとしつつも、数回のレッスンで何らかの変化を感じる人は多いと指摘しています。しかし、その変化を深め、持続的なものにするためには、数ヶ月から数年にわたる学びと実践が一般的です。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジの研究者であった故グレンナ・バトソン(Glenna Batson)は、アレクサンダーテクニークのようなソマティック(身体的)教育は、身体意識の変容を伴う深い学習プロセスであり、時間をかけて統合される必要があると論じています (Batson, 1996、これは一般的なソマティック教育に関する文献)。
- Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. Methuen & Co. Ltd.
5.2 「正しい姿勢」という固定観念からの脱却
アレクサンダーテクニークは、しばしば「正しい姿勢を教えるもの」と誤解されがちですが、これは正確ではありません。テクニークが目指すのは、固定的な「正しい形」ではなく、常に変化し適応するダイナミックなバランスです。
5.2.1 常に変化し適応するダイナミックなバランス
人間の身体は静的な構造物ではなく、常に微細な動きと調整を繰り返しながらバランスを保っています。アレクサンダーテクニークは、この自然な動きを妨げる不必要な固定や緊張を取り除き、どんな活動においても身体が効率的に機能できるような「使い方」を再教育します。
- 「姿勢」ではなく「ポイズ(Poise)」: アレクサンダーテクニークでは、「姿勢(posture)」という言葉よりも、より動的で準備の整った状態を意味する「ポイズ(poise)」という言葉が好まれます。ポイズとは、状況に応じて自由に、かつ効率的に反応できる心身の状態を指します。
- 活動の中でのバランス: アレクサンダーテクニークの原則は、静止しているときだけでなく、歩く、座る、楽器を演奏するといったあらゆる活動の中で応用されます。それぞれの活動には異なる身体の使い方が求められますが、その根底にあるプライマリーコントロールの調和という原則は共通です。
- 環境への適応: 私たちの身体は、周囲の環境や状況の変化に常に適応しています。アレクサンダーテクニークは、この適応能力を高め、どんな状況でも不必要な緊張を生み出すことなく、楽に対応できるような身体の知恵を育みます。
デューイ(John Dewey)、アメリカの著名な哲学者であり教育者であった彼は、F.M.アレクサンダーの著作の序文を書いており、アレクサンダーテクニークを「意識的なコントロールとガイダンスの手段」として高く評価しました。デューイは、固定的な習慣からの解放と、状況に応じた柔軟な反応の重要性を説いており、これはアレクサンダーテクニークの目指すところと軌を一にしています (Dewey, 1932, Introduction to Alexander’s The Use of the Self)。
5.3 自己流解釈のリスク
アレクサンダーテクニークの概念はシンプルに見えても、その実践は非常に繊細であり、自己流の解釈や練習は、時に誤った方向に導いたり、効果が得られなかったりする可能性があります。
5.3.1 基本原則の正確な理解の重要性
アレクサンダーテクニークの基本原則(プライマリーコントロール、インヒビション、ディレクション、感覚の誤認識、エンド・ゲイニング)を正確に理解し、それらを相互に関連づけて実践することが重要です。
- 言葉の罠: 「首を自由にする」「頭を前に、上に」といったディレクションの言葉だけを捉えて、力ずくでその形を作ろうとすると、かえって新たな緊張を生み出すことがあります。これは、アレクサンダーが最も警鐘を鳴らしたエンド・ゲイニングの一形態です。
- 感覚の誤認識の再認識: 2.3で述べたように、私たちの感覚は信頼できないことがあります。「楽になった感じがする」という主観的な感覚が、必ずしも客観的に見て良い使い方であるとは限りません。
- 教師の役割: 認定されたアレクサンダーテクニーク教師は、長年の訓練を通じて、生徒の微細な身体の使い方のパターンを観察し、言葉と手(ハンズオン)を用いて、生徒が自分自身では気づきにくい習慣や緊張に気づき、新しい使い方を体験できるよう導く専門家です。この個別のフィードバックとガイダンスは、自己流の練習では得難いものです。
多くの国々で、アレクサンダーテクニーク教師の認定団体(例:STAT in the UK, AmSAT in the USA)が存在し、一定の訓練基準を満たした教師を認定しています。信頼できる教師を見つけることが、テクニークを効果的に学ぶ上で非常に重要です。ある研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンが効果を上げるためには、資格を持つ教師による指導が不可欠であることが示唆されています (Little, et al., 2008 – この研究は腰痛に対するアレクサンダーテクニークの効果を見た大規模研究 ATEAM trial の一部で、教師の質にも言及しています)。
- Little, P., Lewith, G., Webley, F., Evans, M., Beattie, A., Middleton, K., … & Yardley, L. (2008). Randomised controlled trial of Alexander technique lessons, exercise, and massage (ATEAM) for chronic and recurrent back pain. BMJ, 337, a884.
5.4 アレクサンダーテクニークは単なるリラックス法ではない
アレクサンダーテクニークを実践すると、心身の不要な緊張が解け、リラックスした状態が得られることが多いですが、それはテクニークの目的そのものではなく、あくまで結果の一つです。テクニークの本質は、より意識的で建設的な心身のコントロールを学ぶことにあります。
5.4.1 建設的な意識的コントロールとリラックスの違い
「リラックス」という言葉は、時に弛緩しすぎてだらけた状態や、集中力を欠いた状態を連想させることがあります。アレクサンダーテクニークが目指すのは、そのような状態ではありません。
- 覚醒した平静さ(Alert Calmness): アレクサンダーテクニークによって得られる状態は、不必要な緊張はないが、同時に覚醒していて、いつでも行動に移れる準備ができているような「覚醒した平静さ」あるいは「活動的な静けさ」と表現できます。
- 意識的な選択: 単に力を抜くだけでなく、インヒビション(抑制)とディレクション(方向づけ)という意識的なプロセスを通じて、どのように身体を使うかを選択し続けることが求められます。これは、受動的なリラックスとは異なります。
- 目的を持った非努力: 努力をしない(non-doing)という考え方はありますが、それは何もしないということではなく、目的(例えば楽器を演奏する)を達成するために、不必要な努力や力みを使わない、より効率的で賢明な方法を見つけ出すということです。
神経生理学者の故フランク・ピアース・ジョーンズ(Frank Pierce Jones)は、タフツ大学でアレクサンダーテクニークの科学的研究を行い、テクニークの実践が筋活動のパターンを変化させ、より効率的な動きをもたらすことを実証しました。彼の研究は、アレクサンダーテクニークが単なる主観的な感覚の変化に留まらず、測定可能な生理学的変化を引き起こすことを示しています (Jones, 1976)。ジョーンズは、アレクサンダーテクニークがもたらすのは「脱力」ではなく「リ・ポイズ(re-poise)」、つまりバランスの再調整であると強調しました。
- Jones, F. P. (1976). Body awareness in action: A study of the Alexander Technique. Schocken Books.
サックス奏者がこれらの誤解を避け、注意点を心に留めながらアレクサンダーテクニークに取り組むことで、この教育的アプローチの真価を体験し、演奏技術の向上だけでなく、より健康的で充実した音楽生活を送るためのかけがえのないツールとして活用することができるでしょう。
まとめとその他
1. まとめ
本稿では、アレクサンダーテクニークの基本的な考え方から、サックス演奏における具体的な活用ポイント、そしてそれによってもたらされる演奏の質の変化、さらには実践における誤解と注意点に至るまで、多角的に探求してきました。
アレクサンダーテクニークは、創始者F.M.アレクサンダーが自身の経験を通して発見した、心身の不必要な緊張に気づき、それを解放するための教育的アプローチです。その核心には、頭・首・背骨の調和的な関係性である「プライマリーコントロール」の理解、習慣的な反応を意識的に差し控える「インヒビション(抑制)」と望ましいあり方を方向づける「ディレクション(方向づけ)」の実践、自身の感覚が必ずしも正しくないという「感覚の誤認識(Debauched Kinaesthesia)」への対処、そして結果にとらわれずプロセスを重視する「エンド・ゲイニング(結果至上主義)からの解放」といった基本原則があります。
これらの原則をサックス演奏に応用することで、奏者は以下のような多くの恩恵を受ける可能性が示唆されました。
- 身体的な効率性の向上:
- 演奏姿勢(座奏・立奏)の最適化とストラップ調整による負担軽減。
- 胸郭と横隔膜の自由な動きを促進することによる、自然で効率的な呼吸法の改善。
- アンブシュア、顎、舌の不必要な緊張緩和による、クリアな発音と柔軟なコントロール。
- 指、手首、腕の緊張解放による、運指の効率化と自由度の向上。
- 楽器の重さを効率的に分散させ、身体全体を使った自然な演奏動作による、楽器と身体の一体感の醸成。
- 演奏の質の変化:
- よりクリアで豊かな音色の実現と、音の共鳴と身体の使い方の関係を通じた響きの深化。
- ダイナミクスやアーティキュレーションの幅の広がり、フレーズの自然な流れによる音楽表現力の拡大。
- 長時間演奏における身体的負担の軽減と、演奏による怪我や不調の予防への貢献による演奏持久力の向上。
- 演奏時の過度な緊張や不安の緩和、演奏への没入感と自己認識の高まりによる精神的な安定と集中力の向上。
しかし、アレクサンダーテクニークは即効性を期待するものではなく、継続的な意識と実践が必要です。また、「正しい姿勢」という固定観念から脱却し、常に変化し適応するダイナミックなバランスを求めること、自己流解釈のリスクを避け、資格を持つ教師の指導のもとで基本原則を正確に理解すること、そして単なるリラックス法ではなく建設的な意識的コントロールを目指すことが重要であることも強調されました。
サックス演奏は、技術的な習熟と芸術的な表現が高度に融合した活動です。アレクサンダーテクニークは、その両側面において、奏者が自身の潜在能力を最大限に引き出し、より健康的で、より喜びに満ちた音楽生活を送るための、深遠かつ実践的な道筋を示してくれるでしょう。このテクニークを通じて得られる自己認識と心身の調和は、サックス演奏の技術向上に留まらず、人生のあらゆる場面においても価値ある財産となり得ます。
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3. 免責事項
本稿で提供される情報は、アレクサンダーテクニークとサックス演奏に関する一般的な知識と理解を深めることを目的としており、医学的アドバイス、診断、または治療に代わるものではありません。
アレクサンダーテクニークの実践、特に既存の身体的な問題や痛みを抱えている場合には、必ず資格を持つ専門のアレクサンダーテクニーク教師の指導のもとで行うことを強く推奨します。自己流の解釈や実践は、期待される効果が得られないばかりか、場合によっては不利益な結果を招く可能性もあります。
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