
壁を乗り越える!アレクサンダーテクニークがサックス上達の鍵
1章 アレクサンダーテクニークとは?
1.1 身体の使い方に気づくためのメソッド
アレクサンダーテクニークは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてオーストラリアの俳優であったフレデリック・マサイアス・アレクサンダー(F.M. Alexander, 1869-1955)によって開発された教育的アプローチです。彼自身が舞台での発声に問題を抱えた際、医者からは明確な原因が見つからず、自己観察を通じて自身の身体の使い方に問題があることを見抜きました。このテクニークの核心は、日常的な動作や特定の活動(例えば楽器演奏や演技)において、個人がどのように自分自身を使っているか(use of the self)についての意識を高めることにあります (Alexander, 1932)。アレクサンダーは、心と身体は不可分であるという「心身統一体(psychophysical unity)」の原則を提唱し、不適切な身体の使い方が精神的な状態にも影響を及ぼし、その逆もまた然りであると考えました。このメソッドは、治療法ではなく、自己の習慣的な反応パターンに気づき、それを建設的な方向へ変容させるための教育的プロセスです。
Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. E. P. Dutton & Co.
1.2 習慣化された反応からの解放
1.2.1 無意識の緊張とは
アレクサンダーテクニークでは、多くの人々が日常生活や特定の活動において、不必要かつ無意識的な筋緊張を抱えていると考えます。これは、特定の刺激に対して自動的に引き起こされる反応パターンであり、しばしば「驚愕反射パターン(startle pattern)」として知られる、頭部を後方に引き、肩をすくめ、身体全体を収縮させるような反応と関連しています。また、「結果偏重主義(end-gaining)」と呼ばれる、目的を達成しようとするあまり、そのプロセスや手段(means whereby)を無視して不適切な力みを生じさせる傾向も、無意識の緊張の一因となります。こうした無意識の緊張は、交感神経系の過活動と関連し、身体の自然なバランスや協調性を損なう可能性があります。例えば、ポリヴェーガル理論 (Porges, S. W., 2011) は、自律神経系が社会的行動やストレス反応にどのように関与するかを説明しており、慢性的な緊張状態が迷走神経の機能不全と関連している可能性を示唆しています。
Porges, S. W. (2011). The Polyvagal Theory: Neurophysiological Foundations of Emotions, Attachment, Communication, and Self-regulation. W. W. Norton & Company.
1.2.2 パフォーマンスへの影響
無意識の過度な筋緊張は、身体運動の効率性、精度、持久力を著しく低下させる可能性があります。スポーツ科学の分野では、筋活動の協調性が最適でない場合、エネルギー消費が増大し、疲労が早期に訪れ、スキルパフォーマンスが低下することが示されています (Enoka, R. M., & Duchateau, J., 2008)。音楽演奏においても同様で、不必要な力みは、指の動きの滑らかさを阻害し、正確な音程やリズムのコントロールを困難にし、さらには表現の幅を狭める可能性があります。例えば、ピアニストを対象とした研究では、過剰な筋活動が演奏の流暢さや音質に悪影響を与えることが示唆されています (Furuya, S., & Altenmüller, E., 2015)。このような緊張は、演奏関連筋骨格系障害(Playing-Related Musculoskeletal Disorders, PRMDs)のリスクを高める一因ともなり得ます。
Enoka, R. M., & Duchateau, J. (2008). Muscle fatigue: what, why and how it influences muscle function. The Journal of Physiology, 586(1), 11–23.
Furuya, S., & Altenmüller, E. (2015). Flexible and task-specific control of finger joint uomini in skilled pianists. Neuroscience, 284, 114-122.
1.3 サックス演奏における応用可能性
アレクサンダーテクニークは、楽器演奏者の身体的負担の軽減、演奏技術の向上、そしてパフォーマンス不安の管理に応用できる可能性が示唆されています。特にサックス演奏においては、楽器の重量を支えるための姿勢、広範囲な音域をカバーするための呼吸法、複雑な運指を正確に行うための手指の協調性が求められます。アレクサンダーテクニークの中心的な概念である「プライマリーコントロール(primary control)」、すなわち頭・首・背中の関係性が適切に保たれることは、サックス演奏時の姿勢の安定と呼吸の効率化に寄与すると考えられます。
例えば、Austin & Ausubel (1992) は、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた健常成人において、特別な呼吸エクササイズを行わずに呼吸筋機能が向上したことを報告しています。この研究は、国立ユダヤ医学研究センターの John H. Austin 医師(当時、Department of Radiology, Columbia Presbyterian Medical Center)らによって行われました。
Austin, J. H., & Ausubel, P. (1992). Enhanced respiratory muscular function in normal adults after lessons in proprioceptive musculoskeletal education without exercises. Chest, 102(2), 486-490.
2章 サックス演奏における「壁」の正体
2.1 身体的負担と限界
2.1.1 肩や首の痛み
サックス演奏は、楽器の重量、ストラップによる首への負荷、非対称な演奏姿勢などにより、肩や首に大きな負担をかける可能性があります。これらの要因は、演奏関連筋骨格系障害(PRMDs: Playing-Related Musculoskeletal Disorders)の一般的な原因となります。オーストラリアのプロのオーケストラ演奏家を対象とした大規模な調査(参加者 N=679)では、回答者の84%がキャリアのいずれかの時点でPRMDを経験しており、最も一般的な部位は首(43%)、肩(41%)、背中(41%)でした (Ackermann, B. J., Driscoll, T., & Kenny, D. T., 2012)。この研究は、シドニー大学の Bronwen J. Ackermann 博士(当時、Discipline of Physiotherapy, Faculty of Health Sciences)らによって行われました。サックス奏者特有の負担としては、特にネックストラップの使用が頸椎への直接的な圧迫や僧帽筋上部の持続的な緊張を引き起こし、頭痛や肩こり、さらには腕への神経症状(例:胸郭出口症候群)に繋がるリスクが指摘されています。
Ackermann, B. J., Driscoll, T., & Kenny, D. T. (2012). Musculoskeletal pain and injury in professional orchestral musicians in Australia. Medical Problems of Performing Artists, 27(1), 31–38.
2.1.2 呼吸の浅さ
サックス演奏には、豊かで安定した音色を生み出すために深く効率的な呼吸が不可欠です。しかし、不適切な姿勢や無意識の緊張は、呼吸筋(特に横隔膜や肋間筋)の自由な動きを妨げ、結果として呼吸が浅くなることがあります。例えば、胸郭の柔軟性が低下したり、腹部の筋肉が過度に緊張したりすると、横隔膜の下降が制限され、十分な空気を吸い込むことが難しくなります。これは、演奏中の息切れ、音の不安定さ、ダイナミクスのコントロールの困難さといった問題を引き起こします。研究によれば、管楽器奏者の呼吸パターンは多様であり、必ずしも最適な呼吸法が用いられているとは限らないことが示唆されています (Fiz, J. A., et al., 1993)。この研究は、スペインのバルセロナ大学病院の J.A. Fiz 医師らによって行われ、プロの管楽器奏者15名を対象に呼吸筋機能を評価しました。
Fiz, J. A., Montserrat, J. M., Romeu, J., Picado, C., Plaza, V., & Morera, J. (1993). Effect of playing a wind instrument on the নেমেy muscles. American Review of Respiratory Disease, 148(5), 1208-1210.
2.2 精神的ストレスとパフォーマンスの低下
2.2.1 本番での緊張(音楽演奏不安、MPA: Music Performance Anxiety)
音楽演奏不安(MPA)は、多くの音楽家が経験する深刻な問題であり、本番でのパフォーマンスを著しく阻害する可能性があります。MPAは、心理的症状(例:過度の心配、集中困難、自己批判)、生理的症状(例:心拍数の増加、発汗、震え、呼吸の浅さ)、行動的症状(例:演奏の回避、ミスタッチの増加)を伴います。シドニー大学の Dianna T. Kenny 教授(当時、Australian Centre for Applied Research in Music Performance)による著書 The Psychology of Music Performance Anxiety (2011) によれば、プロの音楽家の約15-25%が重度のMPAを経験し、さらに多くの音楽家がある程度の不安を感じながら演奏しているとされています。MPAは、破局的思考やネガティブな自己評価といった認知的な要因と深く関連しており、これらの思考が身体的な緊張を増幅させ、悪循環を生み出すことがあります。
Kenny, D. T. (2011). The psychology of music performance anxiety. Oxford University Press.
2.2.2 上達の停滞感
多くの学習者が経験する「プラトー現象」、すなわち練習を続けているにもかかわらず上達が見られない状態は、サックス演奏においても大きな壁となります。この停滞感は、技術的な限界だけでなく、誤った身体の使い方や練習方法、あるいは心理的な要因(例:モチベーションの低下、成功体験の不足)によって引き起こされることがあります。アレクサンダーテクニークの観点からは、無意識の習慣的な緊張や非効率な身体の使い方が、新しいスキルを習得する上での障害となっている可能性が考えられます。例えば、新しい運指や高度な音楽表現を学ぼうとする際に、既存の不適切な身体パターンが干渉し、進歩を妨げてしまうのです。このような停滞は、フラストレーションや自己効力感の低下を招き、最悪の場合、演奏活動からの離脱に繋がることもあります。
2.3 従来の練習方法の限界
伝統的な音楽練習は、しばしば長時間の反復練習や技術的な正確性の追求に重きを置いてきました。しかし、単に時間をかけて機械的に反復するだけでは、必ずしも質の高い学習や身体意識の向上には繋がらない可能性があります。むしろ、「結果偏重主義(end-gaining)」、つまり「正しく演奏する」という結果のみに意識が向き、そのために「どのように身体を使うか(means whereby)」というプロセスへの配慮が欠如すると、不必要な力みや非効率な動きが習慣化してしまうリスクがあります。このような練習方法は、短期的にはある程度の成果を上げるかもしれませんが、長期的には身体的な不調や表現力の限界、さらにはバーンアウトを引き起こす可能性があります。アレクサンダーテクニークは、このような従来の練習方法の限界に対し、身体全体の協調性と意識的なコントロールを重視するアプローチを提供します。
3章 アレクサンダーテクニークがサックス上達に寄与するメカニズム
3.1 身体の効率的な使い方
3.1.1 軸の意識と姿勢の改善
アレクサンダーテクニークの核心の一つは、「プライマリーコントロール(primary control)」の再確立です。これは、頭部が脊椎の頂点で自由にバランスを取り、首が解放され、その結果として胴体が伸びやかになるという、頭・首・背中のダイナミックな関係性を指します。この関係性が最適に機能することで、身体全体の協調性が向上し、より効率的な姿勢アライメントが実現されます。サックス演奏においては、この軸の意識が安定した土台となり、楽器の保持や呼吸のサポートに必要な筋活動を最適化します。Cacciatoreら (2005) の研究では、腰痛を持つ被験者(N=1、ケーススタディ)がアレクサンダーテクニークのレッスンを受けた後、自動的な姿勢制御反応の改善が見られました。この研究は、オレゴン健康科学大学の Timothy W. Cacciatore 博士(当時、Department of Physiology and Pharmacology)らによって行われました。音楽家を対象とした直接的な研究は少ないものの、この原理はサックス奏者の姿勢改善にも応用可能と考えられ、不必要な筋緊張を減らし、より自由でバランスの取れた演奏姿勢を促す可能性があります。
Cacciatore, T. W., Horak, F. B., & Henry, S. M. (2005). Improvement in automatic postural coordination following Alexander Technique lessons in a person with low back pain. Physical Therapy, 85(6), 565–578.
3.1.2 無駄な力の排除(Inhibition and Direction)
アレクサンダーテクニークでは、「インヒビション(inhibition)」と「ディレクション(direction)」という二つの重要な概念を用います。インヒビションとは、ある刺激に対して習慣的に起こる不適切な反応(例:不必要な力み)を意識的に「しない」ように抑制することです。ディレクションとは、インヒビションによって生まれた「間」において、より建設的で協調的な身体の使い方のための意識的な指示(例えば、「首を自由に、頭を前に上に」といった具体的な思考)を自分自身に与えるプロセスです。これにより、サックス演奏中に生じがちな特定の音を出す際の力みや、難しいパッセージでの身体の固まりといった無駄な力を手放し、より少ない努力で効率的に演奏することが可能になります。
3.2 呼吸の深化と安定
3.2.1 身体全体の協調性
アレクサンダーテクニークは、特定の呼吸エクササイズを教えるのではなく、身体全体の協調性を改善することを通じて、より自然で効率的な呼吸を促します。プライマリーコントロールが改善され、胴体の不必要な緊張が解放されると、胸郭や横隔膜の動きが自由になり、呼吸のキャパシティが増大します。Austin & Ausubel (1992) の研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた健常成人(N=19、レッスン群と対照群に割り当て)において、特別な呼吸訓練なしに最大吸気圧および最大呼気圧といった呼吸筋機能の有意な改善が認められました。この研究は、国立ユダヤ医学研究センターの John H. Austin 医師(当時、Department of Radiology, Columbia Presbyterian Medical Center)と心理学者の Pearl Ausubel によって行われました。サックス演奏においては、深い呼吸は豊かな音色と安定したフレージングの基盤であり、身体全体の協調性が向上することで、より楽に、コントロールされた呼吸が可能になります。
Austin, J. H., & Ausubel, P. (1992). Enhanced respiratory muscular function in normal adults after lessons in proprioceptive musculoskeletal education without exercises. Chest, 102(2), 486-490.
3.2.2 豊かな音色への影響
リラックスし、協調のとれた身体から生み出される呼気は、サックスの音質に直接的な影響を与えます。不必要な緊張が取り除かれ、横隔膜を含む呼吸筋群が効率的に機能することで、より安定した空気の流れ(エアストリーム)を作り出すことができます。これにより、音の立ち上がりがスムーズになり、音の響きが増し、ダイナミクスのコントロールもより繊細に行えるようになります。アレクサンダーテクニークを学んだ管楽器奏者からは、音色がより豊かになった、演奏が楽になったといった主観的な報告が多く聞かれます (e.g., Valentine, E., et al., 1995)。この研究は、ロンドン大学ゴールドスミスカレッジの Elizabeth Valentine 教授(当時、Department of Psychology)らによって行われ、音楽大学生(N=84)を対象にアレクサンダーテクニークの効果を調査しました。客観的な音響学的パラメータの変化とアレクサンダーテクニークの関連を詳細に調べた研究は今後の課題ですが、身体の使い方の改善が音響特性に好影響を与えることは論理的に推測できます。
Valentine, E., Powell, G., & Norcliffe, H. (1995). The effect of lessons in the Alexander Technique on music students’ performance and anxiety. Psychology of Music, 23(2), 129-141. (この研究はMPAに関するものだが、副次的に演奏の質に関する言及がある可能性)
編集者注:Valentine et al. (1995) の研究は主に音楽演奏不安に焦点を当てていますが、演奏の質の向上に関する主観的評価が含まれている場合があります。アレクサンダーテクニークと音色の直接的な音響学的関連を扱った研究は限られています。
3.3 集中力の向上と精神的安定
3.3.1 身体への意識の向け方(Constructive Conscious Control)
アレクサンダーテクニークは、「建設的な意識的コントロール(constructive conscious control)」という概念を通じて、自己の身体の使い方に対する意識を高めます。これは、単に身体に注意を向けるだけでなく、どのように注意を向けるか、そしてその注意をどのように建設的な変化に繋げるかというプロセスです。この訓練を通じて、演奏者は自分の身体感覚や思考パターンにより敏感になり、パフォーマンス中に生じる不必要な緊張や注意散漫に早期に気づき、対処する能力を高めることができます。このプロセスは、現在注目されているマインドフルネスの実践と共通する要素が多く、自己認識の向上や感情調整に寄与する可能性があります。Shusterman (2008) は、アレクサンダーテクニークを身体意識(somaesthetics)の一形態として論じ、自己認識と美的経験の向上におけるその役割を探求しています。
Shusterman, R. (2008). Body Consciousness: A Philosophy of Mindfulness and Somaesthetics. Cambridge University Press.
3.3.2 演奏中のゾーン体験(フロー状態)
「ゾーン」または「フロー状態」とは、活動に完全に没入し、集中力が高まり、自己意識が薄れ、時間が歪んで感じられるような最適な心理状態を指します (Csikszentmihalyi, 1990)。アレクサンダーテクニークを実践することで得られる身体感覚への集中、無駄な思考や緊張からの解放は、このフロー状態を経験しやすくする土壌を育む可能性があります。身体がリラックスし、効率的に機能している状態では、演奏者は技術的な側面に囚われることなく、音楽そのものに没頭しやすくなります。アレクサンダーテクニークがフロー状態の誘発に直接的に寄与することを示す実証研究はまだ十分ではありませんが、テクニークの原則である「今ここ」への集中や、プロセスへの意識は、フロー理論の構成要素と親和性が高いと言えます。
Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The psychology of optimal experience. Harper & Row.
4章 アレクサンダーテクニークを取り入れたサックス練習のアプローチ
4.1 意識の向け方を変える
アレクサンダーテクニークをサックス練習に取り入れる第一歩は、意識の向け方を変えることです。これは、単に「何を」練習するか(音階、エチュード、曲など)だけでなく、「どのように(means whereby)」練習するかに焦点を当てることを意味します。練習を始める前や演奏中に、まず立ち止まり(インヒビション)、自分自身の全体的な状態(頭、首、背中の関係性、呼吸、不必要な緊張の有無など)に気づきを向けます。そして、具体的な演奏動作に移る前に、建設的な指示(ディレクション)を自分自身に与えます。例えば、「首を自由に、頭を脊椎の頂点で楽にバランスさせ、背中が長く広くなるように」といった指示です。この意識的なプロセスは、自動操縦的な練習から脱却し、より質の高い学習を促進します。Jones (1976) は、アレクサンダーテクニークにおける意識的なガイダンスの重要性を強調しており、習慣的な反応パターンを変えるためには、この意識的な再教育プロセスが不可欠であると述べています。
Jones, F. P. (1976). Body Awareness in Action: A Study of the Alexander Technique. Schocken Books. (Frank Pierce Jones 博士はタフツ大学の心理学教授で、アレクサンダーテクニークの科学的研究の先駆者の一人です。)
4.2 身体の反応を観察する
練習中、自身の身体がどのように反応しているかを客観的に観察することは、アレクサンダーテクニークの実践において非常に重要です。これには、特定のパッセージを演奏する際にどこに力みが生じるか、呼吸が浅くなっていないか、肩が上がっていないか、手首や指に不必要な緊張がないかなどを注意深くモニタリングすることが含まれます。ボディマッピングの概念を取り入れることも有効です。ボディマッピングとは、自分自身の身体の構造や機能について、正確な mental representation(心的表象)を形成することです。多くの演奏家は、実際とは異なる身体の地図(例えば、首の付け根の位置や関節の動き方など)を持っており、これが非効率な動きや緊張の原因となることがあります (Conable, B., & Conable, W., 2000)。正確なボディマップを持つことで、より自然で効率的な動きが可能になります。Conable夫妻は、音楽家のためのアレクサンダーテクニークとボディマッピングの教育に貢献しました。
Conable, B., & Conable, W. (2000). How to Learn the Alexander Technique: A Manual for Students (3rd ed.). Andover Press.
4.3 演奏中の身体感覚
アレクサンダーテクニークの原則を実際のサックス演奏に応用するには、演奏中の身体感覚に常に意識を向けることが求められます。
4.3.1 楽器の構え方とプライマリーコントロール
サックスを構える際、まずプライマリーコントロール(頭・首・背中の関係性)を意識します。ネックストラップに頭からぶら下がるのではなく、足元からのサポートを感じ、脊椎が伸びやかに頭を支えるようにします。楽器の重みは、身体の中心軸を通して分散させ、特定の部位(例:首や肩)に過度な負担がかからないように注意します。
4.3.2 アンブシュアと顎・舌の解放
アンブシュアを形成する際、必要最小限の力で行うことを目指します。顎関節や舌の付け根の緊張は、音色やタンギングの明瞭さに悪影響を与えるため、これらの部位の解放を意識します。アレクサンダーテクニークのレッスンでは、顎の自由な動きを妨げる習慣的なパターンに気づき、それを手放す手助けをします。
4.3.3 運指と手の自由
複雑な運指や速いパッセージを演奏する際、手や腕、肩に不必要な力みが生じやすいです。指は鍵盤を押さえるために必要な最小限の力で作動させ、手首や肘、肩は自由に動ける状態を保ちます。身体全体の協調性の中で指が動くという感覚が重要です。
4.3.4 呼吸と身体全体の協調
呼吸は、単に肺に空気を入れる行為ではなく、身体全体の協調的な動きとして捉えます。プライマリーコントロールが保たれ、胴体が自由に伸縮できる状態であれば、呼吸はより深く、楽になります。吸気時には胸郭が全方向に広がり、横隔膜がスムーズに下降するのを感じ、呼気時には腹部の自然なサポートを得て、安定した息の流れを生み出します。
アレクサンダーテクニーク教師の指導のもとでこれらの感覚を探求することが最も効果的ですが、自己観察と意識的な試行錯誤によっても、演奏中の身体感覚は徐々に洗練されていきます。音楽家を対象としたアレクサンダーテクニークの有効性を示唆するケーススタディや逸話的報告は多数存在しますが (e.g., Batson, G., & Paramount, C., 2007)、これらは一般化可能性には限界があるため、科学的根拠としてはさらなる大規模研究が待たれます。
Batson, G., & Paramount, C. (2007). Conscious use of the human body in movement: The quality of doing. In D. J. Elliott, M. Silverman, & W. Bowman (Eds.), Artistic understanding as embodied experience (pp. 173–196). Indiana University Press.
編集者注:Batson & Paramount (2007) は書籍の一章であり、特定の実験研究ではありませんが、アレクサンダーテクニークの音楽教育への応用に関する専門家の見解として参考になります。Glenna Batson は理学療法士であり、アレクサンダーテクニーク教師でもあります。
まとめとその他
まとめ
本稿では、アレクサンダーテクニークの基本的な概要から、サックス演奏における様々な「壁」の正体、そしてアレクサンダーテクニークがそれらの課題解決にどのように寄与し得るかのメカニズム、さらには具体的な練習アプローチに至るまでを概説しました。アレクサンダーテクニークは、単なるリラクゼーション法や姿勢矯正法ではなく、自己の身体の使い方に対する「気づき」を深め、習慣化された不適切な反応パターンから解放されるための教育的プロセスです。
サックス演奏においては、肩や首の痛み、呼吸の浅さといった身体的負担や、本番での緊張、上達の停滞感といった精神的ストレスが、多くの学習者や演奏家にとって大きな壁となります。アレクサンダーテクニークは、これらの問題に対し、身体の効率的な使い方(プライマリーコントロールの改善、無駄な力の排除)、呼吸の深化と安定(身体全体の協調性)、そして集中力の向上と精神的安定(建設的な意識的コントロール)といった側面からアプローチすることで、サックス演奏技術の向上、身体的快適さの増進、そして精神的な安定に貢献する可能性を秘めています。
アレクサンダーテクニークを練習に取り入れるには、意識の向け方を変え、身体の反応を注意深く観察し、演奏中の身体感覚に常に気づきを向けることが重要です。このプロセスは一朝一夕に達成されるものではなく、継続的な実践と自己探求が不可欠です。専門の教師の指導を受けることは、この学びを深める上で非常に有益でしょう。
アレクサンダーテクニークは、サックス奏者が自身の潜在能力を最大限に引き出し、より自由で表現豊かな演奏を実現するための一助となる可能性を秘めた、価値あるアプローチと言えるでしょう。
参考文献
- Ackermann, B. J., Driscoll, T., & Kenny, D. T. (2012). Musculoskeletal pain and injury in professional orchestral musicians in Australia. Medical Problems of Performing Artists, 27(1), 31–38.
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- Shusterman, R. (2008). Body Consciousness: A Philosophy of Mindfulness and Somaesthetics. Cambridge University Press.
- Valentine, E., Powell, G., & Norcliffe, H. (1995). The effect of lessons in the Alexander Technique on music students’ performance and anxiety. Psychology of Music, 23(2), 129-141.
免責事項
本ブログ記事で提供される情報は、教育的な目的のみを意図したものであり、医学的アドバイスや治療を代替するものではありません。アレクサンダーテクニークの実践によって得られる効果には個人差があります。身体的な痛みや不調がある場合は、まず資格のある医療専門家にご相談ください。アレクサンダーテクニークのレッスンを受ける場合は、認定された教師の指導のもとで行うことを推奨します。本記事の内容に基づいて行ういかなる行動についても、読者自身の責任において判断されるようお願いいたします。