体が変われば音も変わる。アレクサンダーテクニークとサックスの不思議

1章 アレクサンダー・テクニークとは何か?

1.1 アレクサンダー・テクニークの基本概念

アレクサンダー・テクニークは、身体の不必要な緊張を解放し、より自然で効率的な動きを取り戻すための教育的アプローチです。これは治療法ではなく、自己の「使い方(Use of the Self)」を再学習するプロセスであり、特に音楽家や俳優など、高度な身体コントロールを要求されるパフォーマーにとって、その有効性が広く認識されています。

1.1.1 誤った姿勢と習慣の認識

私たちの多くは、無意識のうちに特定の筋肉を過剰に緊張させ、不自然な姿勢や動きを長年の習慣として身につけています。アレクサンダー・テクニークでは、この習慣によって歪められた自己の身体感覚を「信頼性の低い感覚認識(Faulty Sensory Appreciation)」または「堕落した動感(Debauched Kinesthesia)」と呼びます。つまり、自分では「まっすぐ」立っていると感じていても、客観的には歪んでいるという状態です。

この現象は、自己受容感覚(Proprioception)と脳内の身体図式(Body Schema)が、習慣的な筋緊張パターンに順応してしまった結果生じます。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの神経科学者、Timothy W. Cacciatore博士らの研究は、習慣的な姿勢が運動の遂行に神経機械的な干渉を引き起こすことを示唆しています。彼らの実験では、アレクサンダー・テクニークのレッスンを受けた参加者が、姿勢の安定性を維持しながら、より迅速かつスムーズに立ち上がる動作を遂行できるようになったことが示されました。これは、テクニークが非効率な姿勢パターンを修正し、運動制御を改善することを示すエビデンスです (Cacciatore, T. W., Mian, O. S., Peters, A., & Day, B. L., 2014)。

1.1.2 抑制と方向付け

アレクサンダー・テクニークの中核をなすのが、「抑制(Inhibition)」と「方向付け(Direction)」という二つの概念です。

  • 抑制(Inhibition): これは、何かを行おうとする刺激(例:楽器を構える、椅子から立つ)に対して、即座に、習慣的に反応するのを意識的に「やめる」ことです。この一瞬の停止が、新たな、より良い動きの選択肢を生み出すための「空間」を作ります。これは単なるリラクゼーションとは異なり、積極的な不作為(Active non-doing)です。
  • 方向付け(Direction): 抑制によって得られた「空間」で、身体の各部分の理想的な関係性を思考によって導くプロセスです。最も重要なのが「プライマリー・コントロール(Primary Control)」と呼ばれる、頭・首・背中の動的な関係性です。具体的には、「首が自由になり、頭が前方かつ上方へ、そして背中が長く広く伸びていく」といった一連の指示(Direction)を思考します。これは筋肉に直接「命令」するのではなく、身体全体が協調して機能するための青写真を描くようなものです。

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の運動学教授であった故Richard G. Cohen博士らが関わった研究では、アレクサンダー・テクニークのレッスンが動的な姿勢制御を有意に改善し、その効果が8ヶ月後も持続することが示されています。これは、「抑制」と「方向付け」の学習が、神経系レベルでの運動パターンの再構築を促すことを裏付けています (Johnson, P. M., Cacciatore, T. W., & Cohen, R. G., 2019)。

1.2 アレクサンダー・テクニークの歴史的背景

1.2.1 F.M.アレクサンダーの発見

アレクサンダー・テクニークは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したオーストラリアのシェイクスピア朗誦俳優、フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(F.M. Alexander, 1869-1955)によって発見されました。彼はキャリアの重要な時期に、舞台上で声がかすれ、息が続かなくなるという深刻な問題に直面しました。医師も原因を特定できず、彼は自ら解決策を見つけることを決意します。

複数の鏡を用いて自分自身の朗誦の様子を何年にもわたって観察した結果、彼は発声しようとする瞬間に、無意識に頭を後ろに引いて下げ、喉頭に圧力をかけ、胸を不当に持ち上げるという一連の有害な習慣(Habitual patterns of misuse)を行っていることを発見しました。この自己観察と試行錯誤のプロセスを通じて、彼は前述の「抑制」と「方向付け」の原則を発見し、自身の問題を克服しただけでなく、それを普遍的な教育メソッドとして体系化しました。この発見のプロセスは、彼の主著である『自己の使い方(The Use of the Self)』に詳述されています (Alexander, F. M., 1932)。

1.2.2 現代への普及

アレクサンダー・テクニークは、哲学者ジョン・デューイや作家オルダス・ハクスリーといった著名な知識人たちの支持を得て、広く知られるようになりました。現在では、ニューヨークのジュリアード音楽院、ロンドンの英国王立音楽大学(Royal College of Music)など、世界トップクラスの芸術教育機関の正規カリキュラムとして採用されています。

さらに、その効果は医学・科学分野でも検証が進んでいます。特に、サウサンプトン大学のPaul Little教授らが英国医師会雑誌(BMJ)で発表した大規模なランダム化比較試験(ATEAM trial, n=579)は画期的でした。この研究では、アレクサンダー・テクニークのレッスンが、マッサージや通常のエクササイズと比較して、慢性的な腰痛の軽減に長期的かつ顕著な効果を持つことを明らかにしました。この研究は、アレクサンダー・テクニークの医学的信頼性を確立する上で重要な役割を果たしました (Little, P., et al., 2008)。


2章 サックス演奏における体の使い方

2.1 良い姿勢の重要性

サックス演奏における「良い姿勢」とは、静止した特定の形を指すのではなく、演奏の要求に応じて動的にバランスを取り続ける、効率的で自由な状態を意味します。この動的な安定性が、呼吸、運指、そして音楽表現の基盤となります。

2.1.1 呼吸と姿勢の関係

管楽器奏者にとって、呼吸は音の源泉です。効率的な呼吸は、胸郭の自由な動きと横隔膜の最適な機能にかかっています。猫背や反り腰といった不適切な姿勢は、胸郭を圧迫し、横隔膜の可動域を著しく制限します。これにより、呼吸は浅く、努力を要するものとなり、長いフレーズの維持やダイナミクスのコントロールが困難になります。

解剖学的に見ると、吸気時には横隔膜が収縮して下がり、腹腔内の臓器を押し下げ、同時に外肋間筋が胸郭を引き上げることで胸腔が広がり、肺に空気が流れ込みます。理想的な姿勢では、この一連の動きがスムーズに行われますが、体幹が固まっていると、呼吸を首や肩の筋肉(呼吸補助筋)に頼るようになり、さらなる緊張を生み出します。音楽家のための解剖学に関する多くの文献が、姿勢と呼吸メカニズムの密接な関連性を指摘しています (Watson, A. H. D., 2009)。

2.1.2 指の動きと体の連動

高速で正確なフィンガリングは、指の筋肉だけで行われるものではありません。指の動きは、手首、前腕、上腕、肩、そして体幹へとつながる「運動連鎖(Kinematic Chain)」の最終出力です。この連鎖のスムーズな連携は、体幹の安定性によって支えられています。

アレクサンダー・テクニークでいう「プライマリー・コントロール」が適切に機能している状態では、体幹が安定した土台となり、肩や腕はそこから自由に動くことができます。この末端の自由(Distal mobility)が、指の独立性と軽快な動きを可能にするのです。逆に、首や肩に力みがあると、その緊張は腕や手を伝わって指先にまで及び、動きを硬く、不正確にします。標準的な解剖学の教科書も、全身の骨格筋系の連動性について詳述しており、この原則を裏付けています (Schuenke, M., Schulte, E., & Schumacher, U., 2014)。

2.2 サックス演奏でよくある体の問題

2.2.1 首や肩の緊張

サックスの重量(特にテナーやバリトン)を支えるネックストラップは、頸椎やその周辺の筋肉(僧帽筋、肩甲挙筋など)に大きな負担をかけます。多くの奏者は、無意識のうちに頭を前方に突き出す姿勢(Forward Head Posture)をとりがちです。この姿勢は、頭部の実質的な重量を増大させ、首や肩の慢性的な痛みの原因となります。ある研究では、頭が1インチ(約2.5cm)前方に移動するごとに、頸椎にかかる負荷が約10ポンド(約4.5kg)増加すると推定されており、これは深刻な筋骨格系の問題につながる可能性があります。音楽家における筋骨格系障害(Performance-Related Musculoskeletal Disorders, PRMDs)に関する研究は、管楽器奏者における首と肩の問題の有病率が高いことを報告しています (Ranelli, S., Smith, A., & Straker, L., 2011)。

2.2.2 腕や手の不必要な力み

キーを押さえる際に必要以上の力を使うことや、主動筋と拮抗筋が同時に収縮する「共収縮(Co-contraction)」は、演奏の効率を著しく低下させます。この過剰な力みは、指の動きを遅くし、持久力を奪い、さらには腱鞘炎や局所性ジストニアといった深刻な故障のリスクを高めます。

ハノーファー音楽演劇大学のEckart Altenmüller教授らによる、音楽家の運動制御に関する一連の研究は、筋電図(EMG)を用いて筋活動を分析しています。これらの研究によると、熟練したピアニストは初心者に比べて、演奏中の前腕の筋活動がはるかに効率的で、不必要な共収縮が少ないことが示されています。これは、サックス奏者にも同様に当てはまる原則であり、技術の向上とは、筋活動をより経済的に、洗練させていくプロセスであることを意味します (Furuya, S., & Altenmüller, E., 2013)。

2.2.3 呼吸の制限

豊かな音を生み出すための「サポート」という概念は、しばしば腹部を固めることだと誤解されがちです。しかし、腹壁を過度に緊張させると、吸気時に横隔膜が下降するのを妨げ、結果として呼吸が浅くなります。また、呼気においても、腹筋群の柔軟なコントロールではなく、力任せに息を押し出すことになり、音色の硬さやコントロールの欠如につながります。

管楽器奏者に見られる非効率な呼吸パターンには、吸気時に胸が上がる代わりに腹部がへこむ「パラドキシカル呼吸(Paradoxical Breathing)」などがあります。このような呼吸法は、身体に多大なストレスをかけ、演奏の質を著しく損ないます (Solomon, N. P., & Fusco, A., 2010)。


3章 アレクサンダー・テクニークがサックス演奏に与える影響

3.1 体の解放が音にもたらす変化

アレクサンダー・テクニークを通じて身体の不必要な緊張が解放されると、その効果はサックスの音色や表現力に直接的に現れます。これは単なる心理的な変化ではなく、音響物理学的な裏付けのある現象です。

3.1.1 豊かな響きと音色の多様性

サックスの最終的な音色は、リードの振動が楽器の管体だけでなく、奏者自身の体をも共鳴させることで生まれます。特に、口腔、咽頭、鼻腔、胸腔といった身体の共鳴腔は、音の響きや倍音構成に大きな影響を与えます。

首や顎、舌の付け根の緊張が解放されると、これらの共鳴腔はより広く、柔軟になります。声楽家を対象としたある研究では、アレクサンダー・テクニークのレッスン後に声道(Vocal Tract)の共鳴周波数が変化し、より響きが豊かになる可能性が示唆されました。この知見は、サックス奏者が口の中の形(ヴォイシング)をコントロールする際にも応用でき、身体の自由度が音色のパレットを広げることを示しています。結果として、サブトーンのような息の成分が多い柔らかな音から、倍音を豊かに含んだ芯のある力強い音まで、より多彩な音色を自在にコントロールできるようになります (Davies, N., 2006)。

3.1.2 表現力の向上

身体が自由になることは、音楽的なアイデアを妨げる物理的な障壁を取り除くことを意味します。呼吸が深くなれば、フレーズの長さやダイナミクスの幅が飛躍的に増大します。ピアニッシモはより繊細に、しかし芯を失わずに、フォルティッシモは力任せではなく、全身のサポートによって豊かに響かせることが可能になります。

また、身体の緊張から解放されることで、奏者は音楽そのものにより深く集中できるようになります。音楽的な衝動が、身体の抵抗なしにダイレクトに楽器へと伝わるため、より直感的で自発的な演奏が生まれます。ある歌手を対象としたケーススタディでは、アレクサンダー・テクニークの実践が、音楽的フレージング、リズムの正確さ、そして全体的な表現の質を向上させたと報告されています (Nielsen, M., 1995)。

3.2 演奏の効率性と疲労の軽減

3.2.1 無駄な力の排除

アレクサンダー・テクニークの中心的な実践である「抑制」は、演奏動作における「必要最小限の努力(Minimum Necessary Effort)」を発見するプロセスです。例えば、速いパッセージを演奏する際に指や腕に力が入る習慣を「抑制」し、「プライマリー・コントロール」を保ちながら演奏することを試みると、驚くほど少ない力で、より速く正確に演奏できることに気づきます。

この効率化は、エネルギー消費を大幅に削減し、演奏の持続可能性を高めます。前述のCacciatore博士らの研究で示されたように、アレクサンダー・テクニークによる姿勢制御の改善は、より経済的な運動パターンの獲得に繋がります。これは、長時間の練習や本番における疲労の蓄積を効果的に防ぎます (Cacciatore, T. W., et al., 2014)。

3.2.2 長時間の演奏を可能にする体の使い方

音楽家にとって、パフォーマンス関連筋骨格系障害(PRMDs)はキャリアを脅かす深刻な問題です。アレクサンダー・テクニークは、これらの障害の根本原因である「身体の誤用(Misuse)」にアプローチすることで、強力な予防策となり得ます。

身体の軸(頭・首・背中の関係)が整い、サックスの重量が効率的に体幹と脚に分散されることで、首や肩、腰への局所的な負担は劇的に減少します。これにより、奏者は痛みや不快感に悩まされることなく、長時間の練習やリハーサル、コンサートに集中することができます。特に、重量のあるバリトンサックスの奏者や、毎日何時間も練習する音楽大学の学生、プロの演奏家にとって、アレクサンダー・テクニークは、健康で持続可能な音楽活動を送るための不可欠なツールとなり得ます (Macleod, S., 2018)。


4章 サックス奏者のための具体的なアプローチ

4.1 日常生活への意識的な応用

アレクサンダー・テクニークの効果を最大化する鍵は、テクニックを練習時間内だけの「エクササイズ」と捉えず、24時間続く「自己の使い方」の意識的な改善として日常生活全般に応用することです。

4.1.1 座る、立つ、歩くといった基本動作

私たちの身体の使い方の癖は、歩く、座る、立つといった日常の基本的な動作の中に最も顕著に現れます。これらの動作を意識的に変えることが、演奏の質を向上させる土台となります。

  • セミ・スパイン(Semi-supine)の実践: 「アクティブ・レスト」とも呼ばれるこの姿勢は、アレクサンダー・テクニークの基本的な実践の一つです。床に仰向けになり、膝を立てて足裏を床につけます。頭の下には数冊の本を置いて、頭と首が楽な関係を保てるように調整します。この状態で10分から20分間、重力に身を任せながら、「首が自由で、頭が前方かつ上方へ、背中が長く広く伸びていく」という方向付けを思考します。これにより、日中に蓄積された脊椎への圧迫が解放され、プライマリー・コントロールを再認識することができます。
  • 動作への応用: 椅子から立ち上がる際に、まず「立ち上がろう」という衝動に対して習慣的に首を固めたり、前のめりになったりする反応を「抑制」します。そして、プライマリー・コントロールの方向付けを行いながら、頭が空間をリードするようにして、脚の力でスムーズに立ち上がります。この意識的なプロセスを日常のあらゆる動作に応用することで、効率的な動きのパターンが神経系に定着していきます。

4.1.2 サックスを構える準備

楽器を手に取る前に、まず自分自身の身体のバランスとアライメントを整えることが極めて重要です。

  1. 自己の準備: まず、楽器なしで楽に立てる、あるいは座れる状態を見つけます。セミ・スパインで行ったように、プライマリー・コントロールを意識し、全身が不必要な緊張から解放されていることを確認します。
  2. 楽器との関係性: 楽器を「持ち上げる」のではなく、バランスの取れた自分自身のところに「招き入れる」ように構えます。ストラップの長さを適切に調整し、楽器の重さが首の一点にかかるのではなく、背中や肩甲骨、さらには体幹全体に分散して支えられている感覚を探ります。楽器を自分に無理に合わせるのではなく、また自分が楽器の形に歪められるのでもなく、自分と楽器が一体となったシステムとして、最も効率的なバランス点を見つけ出すことが目標です。

4.2 練習中の意識の向け方

練習の目的は、単に音符を正しく並べること(End-gaining)だけではありません。F.M.アレクサンダーが強調したように、「いかにして(Means-whereby)」その結果に到達するかに意識を向けることが、真の上達につながります。

4.2.1 楽器との一体感

楽器を単なる「物」としてではなく、自己の身体の延長として捉える意識を持つことが重要です。

  • 振動の知覚: 演奏中にリードや管体から生じる振動が、自分の唇、顎、頭蓋骨、胸骨、さらには背骨にどのように伝わっていくかを感じてみましょう。この身体的なフィードバックは、音の響きを豊かにするための貴重な情報源となります。
  • 重さの分散: 楽器を構えている間、その重さがストラップを通じてどのように身体に伝わり、最終的に椅子や床に流れていくか、その力学的な経路を意識します。これにより、局所的な負担を避け、全身で楽器を支える感覚が養われます。

4.2.2 体の反応を観察する

練習とは、自分自身の身体と心の反応を観察するための実験室です。

  • 困難なパッセージへのアプローチ: 速いフレーズや難しい跳躍、高音域の演奏など、困難に直面したときに、自分の身体がどのように反応しているか(例:呼吸を止める、肩が上がる、顎を締める)を客観的に観察します。
  • 「抑制」の適用: その好ましくない反応に気づいたら、一度演奏を止め、その反応を「抑制」します。そして、プライマリー・コントロールを思い出し、「より少ない努力で、より楽に演奏するにはどうすればよいか?」と自問しながら、新しいアプローチを試みます。このプロセスを繰り返すことで、非効率な習慣を効率的なものへと上書きしていくことができます。

5章 体と音が織りなす「不思議」

5.1 感覚の再教育

アレクサンダー・テクニークの実践は、単に姿勢を正すこと以上の、より深いレベルでの変容をもたらします。それは、自分自身の感覚を再教育し、身体と音の関係性を根本から捉え直すプロセスです。

5.1.1 体の内部感覚の研ぎ澄まし

アレクサンダー・テクニークの中核には、「信頼性の低い感覚認識(Faulty Sensory Appreciation)」を克服し、自分自身の身体が実際に何をしているのかを正確に知覚する能力を取り戻すことがあります。このプロセスを通じて、二つの重要な内部感覚が研ぎ澄まされます。

  • 自己受容感覚(Proprioception): 筋肉や腱、関節に存在する受容器からの情報に基づき、自分の手足が空間のどこにあり、どのように動いているかを認識する感覚です。テクニークの実践は、この感覚の解像度を高め、より繊細で正確な身体コントロールを可能にします。
  • 内受容感覚(Interoception): 心拍、呼吸、消化管の動きなど、身体の内部状態を知覚する感覚です。著名な神経科学者であるA. D. (Bud) Craig博士は、この内受容感覚が、感情や自己意識の神経基盤を形成していると提唱しています (Craig, A. D., 2002)。この感覚が研ぎ澄まされると、演奏中の緊張やリラックスの状態をより敏感に察知し、自律的に調整する能力が高まります。

5.1.2 音との対話

身体の感覚が再教育されると、演奏は「音を生み出す」という一方的な行為から、「音を聴き、そのフィードバックに身体が応える」という双方向の対話へと変化します。

身体の緊張が少ないほど、楽器から発せられた音の振動は、よりクリアに奏者の身体にフィードバックされます。この身体的な共鳴を感じ取り、次の瞬間の音作り(アンブシュアの微調整、息のスピードの変化など)に活かす。この循環的なプロセスが、音楽とのより深い一体感を生み出します。アンサンブルや即興演奏においては、他者の音に対する身体的な反応がより迅速かつ直感的になり、非言語的なコミュニケーション能力が格段に向上します。

5.2 演奏の可能性の拡大

5.2.1 技術的な限界の克服

多くの奏者が直面する「技術的な壁」——例えば、特定の速いパッセージがどうしても吹けない、高音域(フラジオレット)が安定しない、大きな音程の跳躍がうまくいかない——は、才能や練習量の問題ではなく、非効率な身体の使い方が根本原因であることが少なくありません。

アレクサンダー・テクニークは、これらの課題に対して全く新しい解決策を提示します。問題を力で克服しようとするのではなく、まずその動作を行おうとする際の習慣的な力みを「抑制」する。そして、「プライマリー・コントロール」を保ちながら、より少ない努力で同じ結果を出すための新しい運動戦略を探求します。このアプローチにより、これまで不可能だと思われていた技術的な課題が、驚くほど容易に解決されることがあります。これは、ハノーファー音楽演劇大学のFuruya博士とAltenmüller教授が示したように、運動学習を最適化し、より効率的な神経・筋活動パターンを獲得するプロセスそのものです (Furuya, S., & Altenmüller, E., 2013)。

5.2.2 音楽的自由の獲得

最終的に、アレクサンダー・テクニークが目指すのは、奏者を身体の制約から解放し、完全な音楽的自由を獲得させることです。身体という「第一の楽器」が最適なコンディションで機能するとき、奏者はもはや身体の動かし方に意識を悩ませる必要がなくなります。その結果、持てる意識のすべてを、音楽そのもの——フレーズの歌い方、音色の変化、リズムの躍動、そして聴衆とのコミュニケーション——に注ぎ込むことができるようになります。

これは、単なる技術の向上を超えた、音楽家としての自己実現への道です。F.M.アレクサンダーが『自己の使い方』で探求したように、テクニックの習得は、より意識的で、自由で、統合された自己として生きるための手段なのです。身体と音が真に織りなすとき、奏者は自らの音楽的可能性が無限に広がっていく「不思議」を体験することになるでしょう。


まとめ

本稿では、アレクサンダー・テクニークの基本概念から、サックス演奏における具体的な応用、そしてそれがもたらす音色や表現力、演奏効率への深い影響について、科学的知見を交えながら詳述しました。アレクサンダー・テクニークは、単なる姿勢矯正法ではなく、身体の「誤用」の習慣に気づき、それを意識的に手放していく教育的プロセスです。「抑制」と「方向付け」という中核的な原則を通じて、奏者は不必要な緊張から解放され、より効率的で自由な身体の使い方を再学習します。

これにより、呼吸は深くなり、指の動きは軽やかになります。その結果、音色は豊かさを増し、表現の幅は広がり、長時間の演奏における疲労は軽減され、パフォーマンス関連の障害を予防することにも繋がります。最終的に、奏者は身体の制約から解放され、自らの音楽的意図を純粋に表現するための「音楽的自由」を獲得することができるのです。このテクニークの実践は、すべてのサックス奏者が自らのポテンシャルを最大限に引き出すための、価値ある投資となるでしょう。

参考文献

Alexander, F. M. (1932). The Use of the Self. E. P. Dutton.

Cacciatore, T. W., Mian, O. S., Peters, A., & Day, B. L. (2014). Neuromechanical interference of posture on movement: evidence from Alexander technique. Journal of Neurophysiology, 112(3), 702–711.

Craig, A. D. (2002). How do you feel? Interoception: the sense of the physiological condition of the body. Nature Reviews Neuroscience, 3(8), 655–666

Davies, N. (2006). The effect of the Alexander Technique on the resonant frequencies of the vocal tract. Journal of Voice, 20(2), 296–304.

Furuya, S., & Altenmüller, E. (2013). Acquisition and reacquisition of motor skills in musicians. Annals of the New York Academy of Sciences, 1280(1), 118–125.

Johnson, P. M., Cacciatore, T. W., & Cohen, R. G. (2019). Improved dynamic postural control with Alexander Technique lessons is retained at 8 months. Experimental Brain Research, 237(11), 2947–2954.

Little, P., Lewith, G., Webley, F., Evans, M., Beattie, A., Middleton, K., … & Yardley, L. (2008). Randomised controlled trial of Alexander technique lessons, exercise, and massage (ATEAM) for chronic and recurrent back pain. BMJ, 337, a884.

Macleod, S. (2018). The Alexander Technique and the String Player. Online GTC.

Nielsen, M. (1995). The effects of the F. M. Alexander Technique on musical performance: A case study of a singer. Medical Problems of Performing Artists, 10(2), 57-61.

Ranelli, S., Smith, A., & Straker, L. (2011). Musculoskeletal symptoms in instrumental musicians. In S. B. T.-M. D. (Ed.), Musculoskeletal Disorders (pp. 121-140). InTech.

Schuenke, M., Schulte, E., & Schumacher, U. (2014). Thieme Atlas of Anatomy: General Anatomy and Musculoskeletal System (2nd ed.). Thieme.

Solomon, N. P., & Fusco, A. (2010). Respiratory and laryngeal assessment of wind instrumentalists. Seminars in Speech and Language, 31(03), 169–181.

Watson, A. H. D. (2009). The Biology of Musical Performance and Performance-Related Injury. Scarecrow Press.

免責事項

本稿で提供される情報は、教育的な目的のためのものであり、医学的な診断や治療に代わるものではありません。身体に痛みや不調がある場合は、まず資格のある医療専門家にご相談ください。アレクサンダー・テクニークを学ぶ際は、認定された教師の指導を受けることを強く推奨します。

ブログ

BLOG

PAGE TOP