ヴァイオリンの表現力を高める!アレクサンダーテクニークで身体と楽器を一体に 

1章:はじめに:なぜヴァイオリン演奏にアレクサンダーテクニークなのか?

1.1 ヴァイオリン演奏と身体の不必要な緊張

ヴァイオリン演奏は、高度な技術と芸術的表現が要求される一方で、その非対称的(asymmetrical)な姿勢と反復的な動作により、奏者の身体に多大な負荷をかける活動です。多くの奏者は、肩こり、背中の痛み、腕の張りといった身体的な不調に悩まされており、これらは総称して「演奏関連筋骨格系障害(Playing-Related Musculoskeletal Disorders, PRMDs)」として知られています。オーストラリアのクイーンズランド音楽院で478人の音楽大学生を対象に行われた横断研究では、弦楽器奏者の12ヶ月有病率が84%に達し、特に首(63%)と肩(54%)に問題が集中していることが報告されています (Ackermann, Driscoll, & Kenny, 2012)。これらの問題の根源には、楽器を「正しく」構えよう、あるいは難易度の高いパッセージを「頑張って」弾こうとする際に生じる、無意識かつ不必要な筋緊張(unnecessary muscle tension)が存在します。この過剰な緊張は、身体の自由な動きを妨げ、血流を阻害し、最終的には痛みや故障の原因となるだけでなく、音楽表現の可能性をも狭めてしまいます。

1.2 アレクサンダーテクニークが目指すもの:心と身体の調和

アレクサンダーテクニークは、オーストラリアの俳優であったフレデリック・マサイアス・アレクサンダー(1869-1955)によって開発された、心身の不必要な習慣的緊張に「気づき」、それを意識的に「抑制」し、より調和の取れた使い方を「方向づける」ための教育的アプローチです。これは単なるリラクゼーション法や姿勢矯正法ではありません。「心身統一体(psychophysical unity)」という基本概念に基づき、思考や感情が身体の緊張パターンに直接影響を与え、またその逆も然りであると考えます。タフツ大学の故フランク・ピアース・ジョーンズ教授は、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた被験者の動きを多重露光写真や筋電図(EMG)を用いて詳細に分析し、このテクニークが「スタートル・パターン(startle pattern)」として知られる驚愕反応に伴う無意識の筋収縮を減少させ、より効率的な運動パターンを促進することを示しました (Jones, 1976)。その目的は、特定の「正しい姿勢」を維持することではなく、いかなる活動においても、重力との関係の中で動的にバランスを取り、最大限の効率と自由さをもって自己を使いこなす能力を養うことにあります。

1.3 表現力と身体の使い方の深いつながり

音楽的表現力は、単に指や腕の動きの正確さだけで決まるものではありません。豊かな音色、繊細なデュナーミク、流れるようなフレージングはすべて、奏者の身体全体が調和して機能した結果生まれるものです。運動制御(motor control)の分野では、身体の自由度が解放されるほど、環境の変化に対して柔軟かつ適応的な運動が可能になるとされています。過剰な筋緊張は、関節の動きを固定化し、この「運動の自由度(degrees of freedom)」を著しく制限します。ロンドン大学ゴールドスミス校の音楽心理学者であるジョン・スロボダは、感情的な音楽演奏が、テンポ、強弱、アーティキュレーションの微細な変動によって特徴づけられることを明らかにしました (Sloboda, 1991)。このような微細なコントロールは、力んだ身体からは生まれ得ません。アレクサンダーテクニークを通じて身体の不必要な緊張を手放すことは、ヴァイオリンという楽器の持つ共鳴を最大限に引き出し、奏者の音楽的意図をより直接的かつ自由に音へと変換するための、根本的な基盤を築くプロセスなのです。

2章:アレクサンダーテクニークの基本原則

2.1 プライマリー・コントロール:頭・首・背骨の自然な関係性

プライマリー・コントロール(Primary Control)は、アレクサンダーテクニークの中心的な概念であり、頭部、首、そして背骨(特に脊椎の上部)の間の動的な関係性を指します。F.M.アレクサンダーは、この関係性が全身の筋肉の緊張バランスと協調性(coordination)を支配する主要なメカニズムであると発見しました。具体的には、「首が自由であること(a free neck)」によって、「頭が前方と上方へ向かうこと(the head to go forward and up)」が可能となり、その結果として「背中が長く、広くなること(the back to lengthen and widen)」が促される、というダイナミックな連鎖反応です。この関係性が適切に機能しているとき、抗重力筋(anti-gravity muscles)は最小限の努力で身体を支えることができ、四肢は自由に動くことが可能になります。神経生理学者でノーベル賞受賞者のチャールズ・シェリントン卿は、姿勢の維持における「固有受容感覚(proprioception)」と首の筋肉からのフィードバックの重要性を指摘しており、プライマリー・コントロールの生理学的基盤を間接的に支持しています (Sherrington, 1906)。このコントロールが妨げられると(例えば、頭を後方や下方へ引き下げるような習慣的な緊張があると)、全身の協調性は崩れ、ヴァイオリン演奏における非効率な動きや緊張の原因となります。

2.2 インヒビション(抑制):無意識の習慣的反応を止める力

インヒビション(Inhibition)は、アレクサンダーテクニークにおいて、特定の刺激に対して即座に、習慣的に反応することを意識的に「やめる」能力を指します。これは単なる行動の停止ではなく、既存の神経経路の使用を一時停止し、新しい、より意識的な選択肢を考慮するための「間」を作り出すプロセスです。例えば、ヴァイオリンを構えようとする瞬間に、無意識に肩をすくめ、首を固めてしまう習慣があったとします。インヒビションは、この一連の自動的な反応の引き金を引くのを意識的に差し控えることです。神経科学の観点からは、このプロセスは前頭前野(prefrontal cortex)が司る実行機能(executive functions)、特に反応抑制(response inhibition)と深く関連しています。オランダのライデン大学の研究者による機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた研究では、反応抑制課題中に前頭前野の活動が活発化することが示されています (Forstmann, Brass, Koch, & von Cramon, 2008)。インヒビションを実践することで、奏者は長年かけて形成された非効率な運動プログラムの自動実行を中断し、次に述べる「ディレクション」のための精神的・身体的スペースを確保することができるのです。

2.3 ディレクション(方向づけ):新しい身体の使い方を思考する

ディレクション(Directions)は、インヒビションによって作り出された「間」の中で、新しい、より調和の取れた身体の使い方を意識的に思考し、意図するプロセスです。これは、筋肉に直接「こう動け」と命令するのではなく、身体の各部分が持つべき関係性や動きの「方向性」を心の中で思い描くことです。例えば、「首を自由に、頭を前と上に、背中を長く広く」といった一連の指示を、具体的な行動を起こす前や行動中に、継続的に思考し続けます。運動学習の研究では、運動イメージ(motor imagery)が実際の運動遂行時と同様の脳領域を活性化させ、運動パフォーマンスの向上に寄与することが広く知られています。フランスの国立保健医学研究所(INSERM)のジャン・デセティ博士らの研究は、運動イメージが運動野の準備状態を高め、実際の動きをよりスムーズにすることを明らかにしました (Decety et al., 1994)。アレクサンダーテクニークにおけるディレクションは、この運動イメージの原理を応用し、古い習慣に代わる新しい神経筋の協調パターンを構築するための、継続的なメンタル・プロセスと言えます。

2.4 感覚の信頼性:身体感覚の思い込みと現実

アレクサンダーは、人々が自身の身体の使い方について持っている感覚的な認識が、しばしば客観的な現実と乖離している状態を「信頼性の低い感覚的認識(Faulty Sensory Appreciation)」または「デボーチド・キネステージア(debauched kinesthesia)」と呼びました。長年にわたる不適切な身体の使い方が習慣化すると、脳はその緊張した、あるいは歪んだ状態を「正常」または「快適」であると認識するようになります。その結果、より効率的でバランスの取れた状態になった時に、逆に「違和感」や「不自然さ」を感じてしまうのです。タフツ大学のフランク・ピアース・ジョーンズは、被験者が「まっすぐ立っている」と感じている時の実際の姿勢と、アレクサンダー教師の指導によって変化した後の姿勢を比較し、主観的な感覚と客観的な姿勢との間に顕著な不一致があることを実証しました (Jones, 1976)。この現象は、固有受容感覚(proprioception)のキャリブレーションが長年の習慣によってずれてしまっていることを示唆しています。アレクサンダーテクニークのレッスンは、この感覚の信頼性を再教育し、主観的な「快適さ」ではなく、力学的な効率性に基づいた新しい基準を身体に学習させるプロセスでもあります。

3章:ヴァイオリン演奏における「身体への気づき」

3.1 「頑張る」ことから「手放す」ことへの意識転換

多くの学習者は、技術的な困難に直面した際、「もっと頑張る(try harder)」という戦略に頼りがちです。このメンタリティは、アレクサンダーテクニークでは「エンド・ゲイニング(end-gaining)」と呼ばれ、目的(例:速いパッセージを正確に弾く)を達成することに意識が集中するあまり、その過程(means-whereby)で用いる身体の使い方や全体の協調性を無視してしまう傾向を指します。この「頑張り」は、しばしば目標達成に不必要な、あるいは逆効果でさえある過剰な筋緊張として現れます。対照的に、アレクサンダーテクニークは「ノン・ドゥーイング(non-doing)」の原則を重視します。これは何もしないことではなく、目標達成への直接的な努力を一旦手放し、まず自己の心身の状態に注意を向け、不必要な妨害(interference)を取り除くことに集中するアプローチです。この意識転換は、注意の焦点を外部のタスクから内部のプロセスへと移すことであり、マインドフルネスの実践と共通する要素を持っています。このアプローチにより、奏者は力で問題を解決しようとする悪循環から抜け出し、より効率的で持続可能な解決策を見出すことが可能になります。

3.2 演奏中に起こりやすい無意識の癖とその影響

演奏という複雑なタスクに集中する中で、奏者は意図せずして様々な非効率な身体的習慣に陥ります。これらは多くの場合、無意識下で行われるため、自ら気づいて修正することは困難です。

3.2.1 肩を上げる

ヴァイオリンを支えるために肩をすくめたり、持ち上げたりする癖は非常によく見られます。解剖学的に、肩甲骨は胸郭の上を自由に滑るように設計されており、腕の広範な動きを可能にしています。しかし、僧帽筋上部や肩甲挙筋といった筋肉が慢性的に収縮すると、この自由な動きが阻害されます。この固定化された状態は、肩や首の痛みの直接的な原因となるだけでなく、ボウイングにおける腕の重さの伝達を妨げ、硬く響きの乏しい音色を生み出す原因となります。

3.2.2 顎を噛みしめる

楽器を顎と鎖骨で挟んで固定するという行為は、しばしば顎関節(temporomandibular joint, TMJ)周辺の過剰な緊張を引き起こします。咬筋や側頭筋の持続的な収縮は、顎関節症のリスクを高めるだけでなく、首の上部(上位頸椎)の動きを著しく制限します。プライマリー・コントロールの観点から見ると、顎の緊張は首の自由を直接的に妨害し、全身の協調性に負の影響を及ぼす重要な要因です。

3.2.3 呼吸を止める

技術的に難しいパッセージや、表現に集中する場面で、無意識に呼吸を浅くしたり、止めたりする(apnea)ことは、音楽家によく見られる現象です。この呼吸パターンは、交感神経系を優位にし、心拍数の増加、筋緊張の亢進といった「闘争・逃走反応(fight-or-flight response)」を引き起こします。シドニー大学の研究では、音楽演奏不安(Music Performance Anxiety, MPA)を持つ音楽家は、演奏中に呼吸が不規則になる傾向が強いことが示されています (Kenny, Davis, & Oates, 2004)。呼吸を止めることは、身体の酸素供給を減らし、持久力を低下させるだけでなく、横隔膜の動きを固定化し、体幹の柔軟性を損なうことで、音楽の自然なフレージングや流れをも阻害します。

3.3 観察者としての自分:身体の声を聴く

アレクサンダーテクニークの実践は、自分自身の心身の働きを客観的に観察する能力を養うことから始まります。これは、内受容感覚(interoception)—身体の内部状態(心拍、呼吸、筋肉の緊張など)を知覚する能力—を高めるプロセスと密接に関連しています。サセックス大学の神経科学者、サラ・ガーフィンケル教授らの研究によると、内受容感覚の正確さは、感情の調整能力とも関連していることが示唆されています (Garfinkel et al., 2015)。演奏中に「観察者としての自分」を保つことで、奏者は「肩が上がっているな」「呼吸が浅くなっているな」といった身体からのフィードバックを、自己批判することなく、単なる情報として受け取ることができます。この非判断的な気づき(non-judgmental awareness)が、習慣的な反応の連鎖を断ち切り、インヒビションとディレクションを適用するための第一歩となるのです。

4章:演奏の質を変える身体の各部位へのアプローチ

4.1 楽器の構え方:安定と自由の両立

4.1.1 全身の土台となる足と床の関係

立って演奏する場合も、座って演奏する場合も、身体の安定した支持基盤(base of support)は足から始まります。足裏全体で床を感じ、地球の重力に対して骨格がどのように自身を支えているかを意識することが重要です。地面からの反力(ground reaction force)を効率的に利用することで、脚、骨盤、そして脊椎へと連なる支持の連鎖が生まれます。これにより、上半身は楽器の操作という本来の役割に集中でき、不必要な緊張から解放されます。座って演奏する場合でも、両足をしっかりと床につけ、坐骨(ischial tuberosities)で椅子の座面を明確に感じることが、同様に安定した土台を築く上で不可欠です。

4.1.2 骨盤からのサポートと背骨の伸び

骨盤は脊椎の土台であり、その向きが脊椎全体のカーブを決定づけます。骨盤が後傾(posterior tilt)したり、過度に前傾(anterior tilt)したりすると、脊椎はバランスを取るために代償的なカーブを作り出し、背中や腰の筋肉に過剰な負担がかかります。アレクサンダーテクニークでは、坐骨の上に脊椎が楽に積み重なり、頭頂が空に向かって伸びていくような方向性を意図します。これにより、脊椎の自然なS字カーブが保たれ、椎間板への圧迫が軽減されると共に、体幹の深層筋(例:多裂筋、腹横筋)が効率的に働き、身体の中心軸からの安定したサポートが得られます。

4.1.3 肩甲骨と鎖骨の解放

多くのヴァイオリン奏者は、肩関節を腕の付け根の球関節だと考えがちですが、実際には腕の動きは、肩甲骨(scapula)と鎖骨(clavicle)からなる肩甲帯(shoulder girdle)全体のダイナミックな動きによって支えられています。肩甲骨を背中に固定しようとしたり、鎖骨周辺を固めたりすると、腕の可動域は著しく制限されます。アレクサンダーテクニークでは、肩甲骨が胸郭の後ろを自由に滑り、鎖骨が胸骨から指先へと広がっていくようなイメージを持つことを奨励します。この「解放された肩甲帯」の感覚は、腕の重さを効率的に弦に伝えるボウイングや、ハイポジションへのスムーズなシフティングの基盤となります。

4.2 左手のテクニックと腕の使い方

4.2.1 指板を押さえるのではなく、弦に重さを伝える

左手の指で弦を押さえるという行為は、多くの学習者にとって過剰な力みの原因となります。筋電図(EMG)を用いた研究では、弦を指板に接触させるのに必要な力は非常に小さく、多くの奏者が不必要に強い力で弦を握り込んでいることが示されています (Naert, 2018)。アレクサンダーテクニークでは、指で「押す」のではなく、解放された腕全体の重さが、指先という接点を通して弦に「伝わる」という意識を重視します。このアプローチにより、指、手、手首、前腕の筋肉の負担が劇的に軽減され、指の独立性と敏捷性が向上します。

4.2.2 シフティングにおける腕全体の動き

ポジション移動(シフティング)は、手や指だけで行うものではなく、腕全体、さらには体幹からの動きの連鎖によって行われるべきです。シフティングの瞬間に首を固めたり、肩をロックしたりすると、動きはぎこちなくなり、正確性も損なわれます。プライマリー・コントロールを維持し、腕が肩甲帯から自由に動くことを許容することで、シフティングはより滑らかで労力のないものになります。動きの開始点を指先ではなく、背中や体幹の中心に置くことで、より大きな運動の自由度を活用できます。

4.2.3 ヴィブラートと腕の自由な振動

ヴィブラートは、特定の筋肉を緊張させて生み出すものではなく、前腕、手首、指がバランスの取れた状態で自由に振動した結果として自然に発生する現象です。オハイオ大学の応用生理学者による研究では、熟練した弦楽器奏者のヴィブラート動作において、主動筋と拮抗筋の間の協調的な活性化パターン(co-activation pattern)が観察されました (Levan, 2011)。過剰な緊張は、この繊細な筋肉間の協調を妨げ、硬くコントロールの効かないヴィブラートの原因となります。アレクサンダーテクニークを通じて腕全体の緊張を解放することは、より柔軟で表現力豊かなヴィブラートの前提条件となります。

4.3 右手(ボウイング)と身体の連動

4.3.1 弓を持つということ:重さとバランス

弓の持ち方(ボウホールド)は、固定された形を作るのではなく、弓の重さとバランスを指先で繊細に感じ取り、それに応答する動的なプロセスです。親指と中指が支点となり、他の指は弓の動きに応じて柔軟に適応します。指や手首に力みがあると、この繊細な感覚のフィードバックが妨げられ、弓と弦の接触を適切にコントロールすることが困難になります。結果として、ギシギシという音(scratchy sound)や音量のムラが生じます。

4.3.2 肩・肘・手首の協調運動

滑らかでコントロールされたボウイングは、肩、肘、手首の各関節が、あたかも一つの連続したシステムであるかのように、調和して動くことによって実現されます。運動学(kinematics)的な分析によれば、弓の根元(フロッグ)から先端(ティップ)までを滑らかに動かすためには、これらの関節角度が複雑かつ非線形的に変化する必要があります (Konczak, van der Velden, & Jaeger, 2009)。アレクサンダーテクニークは、これらの関節を固定するのではなく、それぞれの動きの可能性を解放し、相互の協調性を高めることで、全身を使った流れるようなボウイングを可能にします。

4.3.3 背中から生まれるボウイングのエネルギー

パワフルでありながら豊かな響きを持つ音(例:フォルティッシモでの朗々とした音)は、腕の筋力だけで生み出されるものではありません。それは、床からの支持、体幹の安定、そして広背筋や菱形筋といった背中の大きな筋肉群から生み出されるエネルギーが、解放された腕を通して弓に伝達された結果です。身体の中心から末端へとエネルギーが流れるこの「キネティック・チェーン(kinetic chain)」の概念は、スポーツバイオメカニクスの分野では広く知られています。アレクサンダーテクニークの実践は、このエネルギー伝達を妨げる不必要な緊張を取り除き、奏者が自身の身体全体を楽器の一部として使うことを可能にします。

5章:身体の自由さがもたらす音楽的表現力の向上

5.1 音質の向上:豊かな響きを生み出す身体

ヴァイオリンの音は、弦の振動が駒と魂柱を通じて楽器の表板と裏板に伝わり、共鳴することで生まれます。しかし、共鳴体は楽器本体だけではありません。奏者の身体もまた、振動を伝え、吸収する共鳴システムの一部です。過剰な筋緊張は、ダンパー(damper)のように働き、身体を通じた振動の伝達を妨げ、楽器の鳴りを抑制してしまいます。特に、顎、首、肩周りの硬直は、楽器の振動が奏者の頭蓋骨や胸郭に伝わるのを阻害します。アレクサンダーテクニークを通じて身体が解放されると、奏者の身体はより効果的な共鳴体となり、楽器本体のポテンシャルを最大限に引き出すことができます。その結果、音はより豊かで、倍音(overtones)を多く含んだ、響きの深いものへと変化します。

5.2 テクニックの向上:力みから解放されたスムーズな動き

速く、正確なパッセージを演奏する能力は、指を速く動かす筋力よりも、むしろ動きを妨げる拮抗筋の不必要な緊張をいかに取り除くかにかかっています。神経筋生理学において、運動の効率性は、主動筋(agonist)が収縮する際に、拮抗筋(antagonist)が適切に弛緩する「相反神経支配(reciprocal inhibition)」というメカニズムに大きく依存します。過剰な緊張は、このメカニズムを妨害し、主動筋と拮抗筋が同時に収縮する非効率な「共収縮(co-contraction)」を引き起こします。これにより、動きは遅く、硬くなり、疲労も蓄積しやすくなります。アレクサンダーテクニークによる全身の緊張緩和は、この相反神経支配を正常に機能させ、より少ない労力で、より速く、より正確な演奏を可能にする神経学的な基盤を整えます。

5.3 音楽的フレージングと呼吸の自由

音楽のフレーズは、しばしば人間の「歌」や「呼吸」に例えられます。たとえ弦楽器奏者であっても、呼吸のパターンは音楽の自然な流れやアーティキュレーションに深く影響します。呼吸が浅く、胸郭が固定されている状態では、音楽もまた硬直し、息の長いフレーズを表現することが困難になります。アレクサンダーテクニークは、プライマリー・コントロールを改善する過程で、肋骨や横隔膜の動きを解放し、より深く、自然な呼吸を促します。この自由な呼吸は、身体的な持久力を高めるだけでなく、音楽のテンションとリリースの感覚を身体で感じ取り、より有機的で説得力のあるフレージングを生み出すための内的なリズムを作り出します。

5.4 あがり症や演奏不安の軽減

音楽演奏不安(Music Performance Anxiety, MPA)は、多くの音楽家が経験する深刻な問題です。MPAは、動悸、発汗、手足の震えといった身体的症状と、集中力の低下や自己批判的な思考といった認知的症状を伴います。アレクサンダーテクニークは、MPAに対する有効な対処法として注目されています。英国王立音楽大学(Royal College of Music)で行われた研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた学生は、演奏不安が有意に減少し、パフォーマンスの質が向上したことが報告されています (Valentine, 2002)。この効果は、テクニークがもたらす複数の要因によるものと考えられます。第一に、身体の過剰な緊張を解放することで、不安の身体的症状(例:心拍数の上昇、筋の硬直)を直接的に緩和します。第二に、意識を「他者からの評価」という外部の脅威から、「今、ここ」での自身の心身の状態という内部のプロセスへと向けることで、不安を引き起こす認知的な悪循環を断ち切る助けとなります。これは、マインドフルネスに基づくストレス低減法と共通のメカニズムです。

まとめとその他

まとめ

本記事では、アレクサンダーテクニークがヴァイオリン演奏の表現力をいかに高めるかについて、その基本原則から具体的な身体各部へのアプローチ、そして音楽的成果に至るまでを、科学的知見を交えながら概説しました。アレクサンダーテクニークは、単なる姿勢矯正法ではなく、心と身体の不可分な関係性(心身統一体)に基づき、非効率な習慣的反応を意識的に抑制し、より調和の取れた自己の使い方を再学習するための教育的アプローチです。プライマリー・コントロールの回復を通じて全身の協調性を高め、インヒビションとディレクションの実践によって無意識の緊張パターンから脱却することで、奏者は身体の自由度を最大限に引き出すことができます。この身体的な変化は、音質の向上、テクニックの効率化、自然な音楽的フレージング、さらには演奏不安の軽減といった、具体的かつ測定可能な音楽的利益に直結します。最終的に、アレクサンダーテクニークは、奏者が身体という「第一の楽器」を最適にチューニングし、ヴァイオリンという「第二の楽器」を通じて、内なる音楽性をより深く、自由に表現するための強力なツールとなり得るのです。

参考文献

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免責事項

本記事で提供される情報は、教育的な目的のみを意図したものであり、医学的な診断や治療に代わるものではありません。身体に痛みや不調がある場合は、必ず医師や資格を持つ医療専門家にご相談ください。アレクサンダーテクニークの実践に関心がある場合は、資格を持つ教師の指導のもとで行うことを強く推奨します。

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