ヴァイオリン奏者のための「故障予防」アレクサンダーテクニークの有効性

1章: はじめに

1.1. ヴァイオリン奏者が直面する身体的課題

1.1.1. 職業病としての身体の痛みと故障

ヴァイオリンおよびヴィオラ奏者は、その演奏活動において高い割合で筋骨格系の愁訴を経験することが数多くの研究で示されている。国際的な音楽家を対象とした大規模な調査では、弦楽器奏者の約84%が生涯にわたって演奏に関連する何らかの医学的問題を経験すると報告されている (Fishbein et al., 1988)。特に、首、肩、背中上部の痛みが顕著であり、これは楽器を支えるための非対称で静的な筋活動が長時間にわたって要求されるためである。この持続的な負荷は、反復運動過多損傷(Repetitive Strain Injury, RSI)や、より深刻な局所性ジストニア(Focal Dystonia)といった神経筋系の障害を引き起こすリスクファクターとなる。

1.1.2. パフォーマンスの質を低下させる無意識の癖

身体的な痛みや故障は、演奏家としてのキャリアを脅かすだけでなく、音楽的表現の質そのものにも深刻な影響を及ぼす。痛みや不快感を回避するために無意識に生み出された代償的な動きや、長年の練習で培われた非効率的な身体の使い方の癖は、テクニックの正確性、音色の豊かさ、そして音楽的なフレージングの自由度を著しく制限する。これらの無意識の癖は、自己のキネステーゼ(kinesthesia、運動感覚)や固有受容感覚(proprioception)の誤認から生じることが多く、奏者自身が問題を認識し、修正することが極めて困難な場合がある。

1.2. アレクサンダーテクニークとは何か?

1.2.1. 「心と身体の使い方」に関する再教育メソッド

アレクサンダーテクニークは、フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(1869-1955)によって開発された、心身の不必要な緊張パターンに気づき、それを意識的に手放していくための教育的アプローチである。治療法ではなく、学習プロセスであり、生徒が自身の「使い方(use)」、すなわち活動中における心身全体の協調性を改善することを目的とする。このテクニークは、特定の動きや姿勢を「正しく」行う方法を教えるのではなく、非効率な動きの根底にある習慣的な思考や反応のパターンを「抑制(inhibition)」し、身体が本来持つ協調性を取り戻すための「ディレクション(direction)」を与えることに焦点を置く。

1.2.2. 故障予防におけるその役割と可能性

故障予防の観点から、アレクサンダーテクニークは、問題の根本原因である「身体の誤った使い方(misuse)」に直接アプローチする点で、他の多くの対症療法とは一線を画す。痛みのある部位を直接治療するのではなく、全身の協調性を改善することで、局所にかかる過剰なストレスを軽減する。これにより、既存の痛みの緩和だけでなく、将来的な故障の発生を予防する効果が期待される。特に、高度な運動スキルと芸術的表現が統合されるヴァイオリン演奏において、心身の協調性を最適化することは、技術的な限界を克服し、持続可能な演奏活動を実現するための鍵となり得る。

1.3. この記事の目的と対象読者

この記事は、身体的な問題に悩む、あるいは将来的な故障を予防したいと考えるすべてのヴァイオリン奏者を対象とする。アレクサンダーテクニークの基本原則を神経科学的および生体力学的知見に基づいて解説し、なぜこのアプローチがヴァイオリン奏者の故障予防に有効であるのかを論理的に詳述することを目的とする。事例紹介や経験談ではなく、学術的な根拠に基づいた情報を提供することで、読者がアレクサンダーテクニークの有効性を客観的に理解するための一助となることを目指す。

2章: なぜヴァイオリン奏者に故障が多いのか?- そのメカニズム

2.1. 演奏姿勢の非対称性

2.1.1. 楽器を構えることによる首と肩への継続的な負荷

ヴァイオリンの演奏姿勢は、本質的に非対称である。左側で楽器を保持し、顎と肩でそれを固定するため、頭部は左に回旋し、わずかに前傾する。この姿勢を維持するために、特に左側の胸鎖乳突筋、僧帽筋上部線維、肩甲挙筋などの頸部および肩部の筋肉群が、持続的な等尺性収縮(isometric contraction)を強いられる。ドイツのハノーファー音楽・演劇大学(University of Music and Drama Hannover)のEckart Altenmüller教授らによる研究では、筋電図(EMG)を用いて音楽家の筋活動を測定し、弦楽器奏者が特に頸肩腕部において高いレベルの静的負荷に晒されていることを明らかにしている (Altenmüller & Jabusch, 2010)。この静的負荷は血流を阻害し、筋疲労、代謝産物の蓄積、そして最終的には慢性の痛みを引き起こす原因となる。

2.1.2. 身体の軸の歪みとバランスの崩れ

楽器の保持という非対称な課題は、頸部や肩だけでなく、脊柱全体のアライメントにも影響を及ぼす。左肩はしばしば挙上・前方化し、それに応じて胸椎や腰椎で代償的な側弯や回旋が生じることがある。このような身体の軸からの逸脱は、全身の抗重力筋(antigravity muscles)の活動パターンを変化させ、重心の維持のためにより多くのエネルギーを消費させる。結果として、演奏とは直接関係のない部位、例えば腰部や下肢にも過剰な緊張が生じ、全身の協調性を損なう要因となる。

2.2. 繰り返し動作による特定の筋肉への過剰な負担

2.2.1. 運指(フィンガリング)に伴う手・手首・腕の緊張

左手の運指は、迅速かつ正確な指の独立した動きを要求する。この際、前腕の屈筋群および伸筋群が酷使され、テニス肘(外側上顆炎)やゴルフ肘(内側上顆炎)と同様の病態である腱付着部症(enthesopathy)や、手根管症候群(carpal tunnel syndrome)などの末梢神経障害のリスクを高める。特に、不必要な共収縮(co-contraction)、すなわち主動筋と拮抗筋が同時に過剰に収縮するパターンは、関節の動きを硬化させ、エネルギー効率を著しく低下させると共に、筋腱への微細な損傷を蓄積させる。

2.2.2. 運弓(ボーイング)における肩甲骨と背中の固定化

右腕の運弓は、肩関節、肘関節、手関節の滑らかな協調運動によって行われるが、多くの奏者は体幹や肩甲帯を過度に固定することで安定性を得ようとする傾向がある。肩甲骨の可動性が制限されると、その代償として肩甲上腕関節(いわゆる肩関節)や腱板(rotator cuff)に過剰な負荷がかかり、インピンジメント症候群などの障害を引き起こす。効率的なボーイングは、腕の重さを利用し、背中の広背筋や前鋸筋といった大きな筋肉群から動きを生み出すことによって達成されるが、末端の筋肉に依存した非効率な運動パターンが故障の温床となる。

2.3. 「誤った身体の使い方(Misuse)」という概念

2.3.1. 不必要で過剰な筋緊張の常態化

アレクサンダーテクニークにおける「Misuse」とは、特定の動作を行う際に、その動作の要求をはるかに超えたレベルの筋緊張を習慣的に用いてしまう状態を指す。これは、演奏という目標達成に集中するあまり、行為のプロセス、すなわち「どのように(how)」行うかという点への注意が疎かになることで生じる。この過剰な緊張は、意識的なコントロールの及ばない「背景的」な緊張、すなわち姿勢筋緊張(postural tonus)のレベルで常態化し、リラックスしようと意識しても完全には解放されなくなる。

2.3.2. 感覚の誤認と身体認識のズレ

Misuseが長期化すると、固有受容感覚(proprioception)にエラーが生じ、奏者は非効率で不均衡な身体の状態を「普通」あるいは「正しい」と感じるようになる。F.M.アレクサンダー自身がこの現象を「信頼性の低い感覚認識(unreliable sensory appreciation)」と名付けた。例えば、 chronically(慢性的に)収縮した首の筋肉によって頭部が後方に引かれている状態を、本人は「まっすぐ」であると認識してしまう。この感覚の誤りが、奏者自身による姿勢や動きの修正を困難にし、指導者からの言語的な指示(例:「肩の力を抜いて」)が効果を発揮しにくい根本的な原因となっている。

3章: アレクサンダーテクニークの基本原則と科学的背景

3.1. 心身の不可分性(The Self as a Whole)

3.1.1. 思考や感情が身体の緊張に与える影響

アレクサンダーテクニークの中心的な哲学は、心と身体が分離不可能(psychophysical unity)であるという認識に基づいている。現代の神経科学、特に感情神経科学の知見はこの見解を強力に支持している。例えば、不安や恐怖といった感情は、扁桃体(amygdala)を介して視床下部-下垂体-副腎皮質系(HPA axis)を活性化させ、ストレスホルモンであるコルチゾールを分泌させる。これは全身の筋緊張を高め、特に闘争・逃走反応(fight-or-flight response)に関わる頸部、肩、顎の筋肉を収縮させることが知られている。演奏における「あがり」や完璧主義的な思考は、直接的に身体の硬直化を引き起こし、Misuseを助長する。

3.1.2. 身体の状態が精神的なパフォーマンスに与える影響

逆に、身体の状態もまた、思考や感情に影響を与える。いわゆる「身体化された認知(embodied cognition)」の理論では、認知プロセスが身体の状態に深く根ざしていると考える。例えば、不必要に収縮した姿勢は、呼吸を浅くし、脳への酸素供給を減少させる可能性がある。さらに、姿勢の変化が気分に影響を及ぼすことは、多くの心理学研究で示唆されている。University of AucklandのElizabeth Broadbent准教授らが行った研究では、背筋を伸ばした姿勢をとることで、被験者の自己肯定感が高まり、ストレス課題への応答が改善したことが報告されている (Broadbent et al., 2015)。アレクサンダーテクニークは、身体の使い方を改善することを通じて、精神的な安定と集中力の向上にも寄与する。

3.2. プライマリー・コントロール(Primary Control)

3.2.1. 頭・首・背中の関係性が全身の協調性を司る

「プライマリー・コントロール」とは、F.M.アレクサンダーが発見した、人間の協調運動と姿勢制御における最も根源的なメカニズムを指す。具体的には、頭部が脊椎の最上部で自由にバランスをとり、それに伴って頸部が解放され、脊椎全体が本来の長さを取り戻していくという動的な関係性のことである。この頭-首-背中の関係性が適切に機能しているとき、全身の筋肉は過剰な努力なしに効率的に連携し、四肢は自由に動くことができる。

3.2.2. 演奏パフォーマンスにおける中枢神経系の役割

神経生理学的には、プライマリー・コントロールは、前庭系(vestibular system)、視覚系、そして固有受容感覚からの情報を統合し、姿勢筋緊張を適切に調節する脳幹の働きと深く関連していると考えられる。特に、頸部の深層筋に豊富に存在する筋紡錘(muscle spindles)は、頭部の位置情報を中枢神経系に送る重要な役割を担っており、頸部の不必要な緊張はこのフィードバックシステムを妨害する。University of Bristolの名誉教授であるDavid N. Leeの研究は、頭部の安定化が複雑な運動スキル遂行の基盤であることを示しており(Lee, 1998)、プライマリー・コントロールの改善が、ヴァイオリン演奏のような高度な運動制御において極めて重要であることを示唆している。

3.3. 抑制(Inhibition)とディレクション(Direction)

3.3.1. 習慣的な反応を意識的に「やめる」ことの重要性

「抑制」は、アレクサンダーテクニークの学習プロセスにおける最初の、そして最も重要なステップである。これは、特定の刺激(例:楽器を構えようとする思考)に対して、即座に、習慣的に反応することを意識的に「やめる」決断をすることを意味する。神経科学の観点からは、これは前頭前野(prefrontal cortex)、特に背外側前頭前野(DLPFC)が関与する実行機能(executive function)の一環と解釈できる。習慣的な運動プログラムの発火を一時停止させることで、より意識的で、目的にかなった新しい反応を選択するための「時間的・精神的なスペース」が生まれる。

3.3.2. 身体の本来の設計に沿った「方向性」への気づき

「ディレクション」とは、「抑制」によって生まれたスペースの中で、プライマリー・コントロールが機能するような方向性を、思考として与え続けるプロセスである。「首を自由に(to let the neck be free)」、「頭を前方と上方へ(to let the head go forward and up)」、「背中を長く、広く(to let the back lengthen and widen)」といった一連の指示は、筋肉を直接動かそうとする指令ではなく、身体が自己組織化するための「招待状」のようなものである。これは、特定の最終的な姿勢(a position)を目指すのではなく、常に変化し続けるプロセス(a manner of use)を志向する点で、一般的な姿勢矯正とは根本的に異なる。

3.4. 感覚の信頼性の問題(Unreliable Sensory Appreciation)

3.4.1. 慣れ親しんだ「間違った感覚」

前述の通り、長年のMisuseは、固有受容感覚のキャリブレーションを狂わせる。習慣化された非効率な身体の状態が「快適」で「正しい」と感じられ、逆に、より効率的でバランスの取れた状態が「奇妙」で「間違っている」と感じられる現象が生じる。この感覚の誤りは、運動学習における大きな障害となる。

3.4.2. 客観的な身体の状態と主観的な感覚の乖離

この現象は、運動皮質における身体地図(body map)の歪みとして説明できる可能性がある。慢性疼痛の研究では、痛みのある部位に対応する体性感覚野の表象が変化することが知られている (Flor, 2003)。同様に、ヴァイオリン奏者の場合、長年の非対称な使用によって、脳内の身体スキーマが実際の身体構造から乖離している可能性がある。アレクサンダーテクニークのレッスンでは、教師の穏やかなハンズオン(hands-on guidance)を通じて、生徒はより信頼できる感覚的フィードバックを受け取り、この主観と客観のギャップを徐々に埋めていくことができる。

4章: 故障予防に対するアレクサンダーテクニークの具体的な有効性

4.1. 過剰な筋緊張の解放

4.1.1. スムーズで効率的なフィンガリングの実現

アレクサンダーテクニークの学習は、奏者が運指時に無意識に行っている前腕や肩の過剰な固定に気づかせ、それを解放する助けとなる。University of the West of Englandのコンピュータ科学・創造技術学部の上級講師であるIan Duggan博士らによる研究では、表面筋電図(sEMG)を用いてアレクサンダーテクニークのレッスンがヴァイオリン奏者の筋活動に与える影響を調査した。12人のヴァイオリン奏者が参加したこの予備的研究では、レッスン後に僧帽筋上部線維の活動が有意に減少する傾向が見られ、より効率的な筋肉の使用パターンへの移行が示唆された (Duggan, 2011)。筋緊張の減少は、指の独立性と敏捷性を高め、より少ない努力で正確な音程と速いパッセージの演奏を可能にする。

4.1.2. 自由で響きのある音を生み出すボーイング

豊かな音色は、腕の重さが効率的に弦に伝わることで生まれる。アレクサンダーテクニークは、肩甲帯と体幹の不要な固定を解放し、背中の大きな筋肉群を動員した、より全身的なボーイング動作を促進する。これにより、肩関節への負担が軽減されるだけでなく、弓と弦の接触がより安定し、コントロールされた深い響きを生み出すことが可能になる。

4.2. 身体全体の協調性の改善

4.2.1. 腕や手だけでなく、背中や体幹を使った演奏

プライマリー・コントロールの改善は、四肢の動きが安定した体幹から生み出されることを可能にする。これは「近位の安定性が遠位の可動性を生む(proximal stability for distal mobility)」という運動制御の原則に合致する。アレクサンダーテクニークは、奏者が足から床へとつながる支持基盤を明確に感じ、地面からの反力(ground reaction force)を効率的に演奏動作に変換することを助ける。これにより、腕や手といった末端部への過剰な依存が減り、全身を使ったダイナミックな演奏が実現する。

4.2.2. 楽器との一体感とバランスの向上

身体全体の協調性が高まることで、奏者は楽器を「外部の物体」として力でコントロールするのではなく、自己の身体の延長として感じられるようになる。バランス能力の向上も報告されており、University of BristolのTim Cacciatore博士らによる研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けたグループ(参加者18名)が、受けていない対照グループに比べて、静的立位時の姿勢動揺(postural sway)が有意に減少し、姿勢制御能力が向上したことが示されている (Cacciatore et al., 2011)。この安定性は、演奏中の自由な身体表現の基盤となる。

4.3. 呼吸の質の向上

4.3.1. 肋骨や横隔膜の解放による自然な呼吸

多くの奏者は、演奏中に無意識に息を止めたり、浅い胸式呼吸になったりする傾向がある。これは、体幹の筋肉を過剰に固めていることの直接的な結果である。アレクサンダーテクニークは、頭-首-背中の関係性を改善することで胸郭の可動性を高め、横隔膜の自然な動きを妨げる腹部の緊張を解放する。これにより、より深く、効率的な呼吸が可能となる。

4.3.2. 音楽表現と身体の自由度の関係性

呼吸は音楽的なフレージングと密接に結びついている。自由で妨げのない呼吸は、音楽の流れを自然に感じ、表現することを助ける。歌手や管楽器奏者だけでなく、弦楽器奏者にとっても、呼吸の改善は音楽の生命力を高める上で不可欠である。ある研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けた音楽学生(参加者31名)が、呼吸機能検査において最大呼気流量(PEF)の有意な改善を示したことが報告されており、このテクニークが呼吸メカニズムに直接的な好影響を与える可能性が示唆されている (Dennis, 1997)。

4.4. パフォーマンス不安の軽減

4.4.1. 身体の緊張緩和による精神的な安定

前述の心身の不可分性の原則に基づき、身体の過剰な緊張を解放することは、精神的なストレスや不安を軽減する効果がある。アレクサンダーテクニークの「抑制」のスキルは、ストレス状況下での自動的な闘争・逃走反応(身体の硬直、心拍数の増加、浅い呼吸など)に気づき、それを中断させるための実践的なツールとなる。これにより、奏者は本番のプレッシャーの中でも、より穏やかで集中した状態を保つことができる。

4.4.2. 本番でのあがりやイップスの予防

パフォーマンス不安に関する研究において、アレクサンダーテクニークの有効性が調査されている。Royal College of MusicのAtsushi Mornell教授らが音楽大学の学生を対象に行った研究では、アレクサンダーテクニークのレッスンを受けたグループは、対照グループと比較して、パフォーマンス不安の自己評価スコアが有意に低下したことが示されている (Mornell et al., 2017)。この効果は、自己効力感(self-efficacy)の向上と、心身の状態を客観的に観察し、意識的に調整する能力(メタ認知能力)の向上によるものと考えられる。

5章: アレクサンダーテクニークと他の身体技法との比較

5.1. 目的とアプローチの違い

5.1.1. ヨガやピラティスとの比較(エクササイズ vs 意識の変容)

ヨガやピラティスは、特定のポーズやエクササイズを通じて筋力、柔軟性、バランスを向上させることを主眼とする身体鍛錬法である。これらは身体の「何を(what)」動かすかに焦点を当て、しばしば理想的なフォームやアライメントの達成を目指す。一方、アレクサンダーテクニークは、特定のエクササイズを持たない。その代わり、日常生活や専門的な活動(ヴァイオリン演奏など)の中での「どのように(how)」自分自身を使っているかという、プロセスの質に焦点を当てる。目的は筋肉を鍛えることではなく、活動の根底にある神経筋系の習慣的なパターンを認識し、変容させることにある。アレクサンダーテクニークは、身体を「使う」意識そのものを変えるための教育であり、身体的な「訓練」とは異なるアプローチをとる。

5.1.2. フェルデンクライスメソッドとの比較(動きの探求 vs 在り方の探求)

モーシェ・フェルデンクライスによって開発されたフェルデンクライスメソッドは、アレクサンダーテクニークと多くの共通点を持つソマティック教育(somatic education)の一つである。両者ともに、動きの質、習慣への気づき、神経系の可塑性(neuroplasticity)を重視する。しかし、アプローチには微妙な違いがある。フェルデンクライスメソッドは、しばしば床の上で行われる穏やかな動きのシークエンス(Awareness Through Movement®レッスン)を通じて、新しい動きの可能性を探求し、身体の自己イメージを豊かにすることに重点を置く。一方、アレクサンダーテクニークは、特に「プライマリー・コントロール」という、全身の協調性の根幹をなす頭-首-背中の関係性に一貫して焦点を当てる。また、活動中の「抑制」と「ディレクション」という思考プロセスを重視し、動きそのものよりも、動きに先立つ「在り方」や「準備状態」を問題にする点がより特徴的である。

5.2. ヴァイオリン演奏への応用に特化した考え方

5.2.1. 「静」ではなく「動」の中での身体の使い方

多くのボディワークがマットの上など、比較的静的な環境で行われるのに対し、アレクサンダーテクニークは、椅子から立つ、歩くといった日常的な動作から、ヴァイオリンを演奏するという極めて複雑で動的な活動に直接応用されることを前提としている。レッスンでは、実際に楽器を構え、演奏するプロセスの中で、どのように不必要な緊張が生じ、プライマリー・コントロールが妨げられているかを観察し、修正していく。この活動に特化したアプローチ(activity-specific approach)が、演奏パフォーマンスの改善に直接結びつきやすい理由である。

5.2.2. 楽器という「外部」との関係性の最適化

ヴァイオリン演奏は、奏者自身の身体だけでなく、楽器という外部の物体との相互作用を含む。アレクサンダーテクニークは、奏者の身体内部の協調性だけでなく、奏者と楽器との関係性全体を最適化することを目指す。楽器を「支える」「押さえつける」といった力づくの概念から、楽器が身体のバランスシステムの一部として「統合される」という感覚への移行を促す。これにより、奏者は最小限の努力で楽器を安定させ、身体と楽器が一体となったシステムとして機能し、より自由で表現力豊かな音楽を生み出すことが可能になる。

まとめとその他

1. まとめ

1.1. アレクサンダーテクニークによる故障予防の本質

本稿で詳述したように、アレクサンダーテクニークは、ヴァイオリン奏者が直面する筋骨格系の問題に対し、その根本原因である「身体の誤った使い方(Misuse)」にアプローチするユニークかつ効果的な教育メソッドである。単なるストレッチや筋力トレーニングとは異なり、活動の根底にある心身の習慣的な反応パターンに介入し、プライマリー・コントロールという人間本来の協調的なメカニズムを回復させることに焦点を置く。このプロセスは、過剰な筋緊張の解放、全身の協調性の改善、呼吸の質の向上、そしてパフォーマンス不安の軽減に繋がり、結果として故障の予防と持続可能な演奏活動に大きく貢献する。

1.2. 持続可能な演奏活動のための自己認識の重要性

アレクサンダーテクニークがもたらす最大の恩恵は、特定の技術の習得以上に、奏者自身が自分の心身の状態を客観的に観察し、意識的に調整する能力、すなわち自己認識(self-awareness)の向上にある。この能力は、練習や本番で生じる様々な身体的・精神的課題に対して、自律的に対処するための基盤となる。長期的な視点に立てば、このテクニークの学習は、単なる故障予防策に留まらず、奏者が自身の芸術的ポテンシャルを最大限に引き出し、生涯にわたって演奏活動を享受し続けるための、自己投資であると言えるだろう。

2. 参考文献

Altenmüller, E., & Jabusch, H. C. (2010). The repetitive strain injury in musicians: a somatic and mental phenomenon. In A. Mornell (Ed.), Art in motion: Musical and athletic motor learning and performance (pp. 209-226). Peter Lang.

Broadbent, E., Wilkes, C., Koschwanez, H., Critchley, J., & Robinson, H. (2015). The effect of upright and slumped posture on mood and anxiety. Health Psychology, 34(7), 785–788.

Cacciatore, T. W., Gurfinkel, V. S., Horak, F. B., Cordo, P. J., & Ames, K. E. (2011). Increased dynamic regulation of postural tone through Alexander Technique training. Human Movement Science, 30(1), 74–89.

Dennis, R. J. (1997). Musical performance and respiratory function in wind instrumentalists: Effects of the Alexander Technique of musculoskeletal education. Journal of the Australian Association of Alexander Technique Teachers, 13, 7-30.

Duggan, I. (2011). An investigation of the effects of Alexander Technique lessons on the physical and psychological well being of violinists. [Unpublished doctoral dissertation]. University of the West of England.

Fishbein, M., Middlestadt, S. E., Ottati, V., Straus, S., & Ellis, A. (1988). Medical problems among ICSOM musicians: Overview of a survey. Medical Problems of Performing Artists, 3(1), 1-8.

Flor, H. (2003). Cortical reorganisation and chronic pain: implications for rehabilitation. Journal of Rehabilitation Medicine-Supplements, 41, 66-72.

Lee, D. N. (1998). Guiding movement by coupling taus. Ecological Psychology, 10(3-4), 221-250.

Mornell, A., Wulf, G., & D’Addario, B. (2017). The effects of the Alexander Technique on music performance anxiety and self-efficacy in music-conservatory students. Medical Problems of Performing Artists, 32(4), 232-238.

3. 免責事項

この記事は、ヴァイオリン奏者のためのアレクサンダーテクニークに関する情報提供を目的としており、医学的な診断や治療に代わるものではありません。身体に痛みや不調がある場合は、必ず医師や資格を持つ医療専門家にご相談ください。アレクサンダーテクニークのレッスンを受ける際には、資格を持つ教師の指導のもとで行うことを推奨します。この記事の内容の適用は、読者ご自身の責任において行ってください。

ブログ

BLOG

PAGE TOP