
管楽器演奏におけるアレクサンダーテクニークの可能性:新たな演奏体験へ
1章:はじめに
1.1. 管楽器演奏者の抱える課題
1.1.1. 身体的な負担と演奏への影響
管楽器演奏は、見た目以上に身体に大きな負担を強いる行為です。特定の姿勢を長時間維持すること、楽器を支えるための筋活動、そして呼吸器官への要求は、演奏者の身体に様々な問題を引き起こす可能性があります。例えば、首、肩、背中の痛みは、多くの管楽器奏者が経験する慢性的な問題として知られています (摘田, 2018)。これは、演奏時の不自然な姿勢や、特定の筋肉への過度な負荷が原因と考えられます。
さらに、演奏時の身体的な制約は、呼吸機能にも直接的な影響を与えます。例えば、猫背のような姿勢は、肺の拡張を妨げ、十分な呼吸量を確保することを困難にします (Hodges & Gandevia, 2000)。オーストラリアのニューサウスウェールズ大学医学部のHodges教授とニューサウスウェールズ大学生理学部のGandevia教授の研究では、姿勢の変化が呼吸筋の活動と呼吸容量に有意な影響を与えることが示されています。十分な呼吸ができないことは、音の持続性や安定性を損ない、結果として音楽的な表現力を低下させる要因となります。
1.1.2. 精神的な緊張とパフォーマンスの阻害
演奏における課題は、身体的な側面に留まりません。舞台上でのプレッシャー、完璧な演奏への要求、そして聴衆からの評価への不安といった精神的な要因も、演奏者のパフォーマンスに大きな影響を与えます。過度な精神的緊張は、筋肉の不必要な収縮を引き起こし、スムーズな演奏を妨げます (Salmon, 1990)。イギリスのリーズ大学心理学部のSalmon博士の研究では、演奏時の不安が身体の動きの制御を困難にし、パフォーマンスの低下につながることが示唆されています。
また、精神的な緊張は呼吸にも悪影響を及ぼします。緊張によって呼吸が浅く速くなることは、十分な酸素供給を妨げ、集中力の低下や判断力の鈍りにつながります (Gross, 1998)。アメリカのスタンフォード大学心理学部のGross教授は、感情が呼吸や心拍数といった生理的な反応に強く影響を与えることを明らかにしています。このように、精神的な緊張は、身体的な負担を増幅させ、演奏の質を低下させる悪循環を生み出す可能性があります。
1.2. アレクサンダーテクニークとは
1.2.1. 身体と心のつながりに着目したメソッド
アレクサンダーテクニークは、20世紀初頭にオーストラリアの俳優、F.M. Alexanderによって開発された教育的なアプローチです。このテクニックは、人間の身体と精神は不可分な存在であり、互いに深く影響し合っているという基本的な考えに基づいています (Alexander, 1923)。Alexander自身が舞台上での声の問題を克服する過程で発見したこのメソッドは、単なる身体の訓練ではなく、自己認識を高め、無意識の習慣的な動き方を意識的に変容させることを目的としています。
アレクサンダーテクニークの核心となるのは、「全体性」の概念です。身体の各部分は独立して機能するのではなく、互いに影響し合い、全体として協調して動くべきであると考えます (Gelb, 2002)。アメリカのアレクサンダーテクニーク教師協会のGelb氏は、著書の中でこの全体性の重要性を強調し、部分的な問題への対処ではなく、全身の協調性を改善することによって根本的な解決を目指すアプローチを解説しています。
1.2.2. 無意識の習慣への気づきと修正
アレクサンダーテクニークは、私たちが日常的に行っている多くの動作が無意識の習慣によって支配されていることに着目します (Jones, 1976)。イギリスのアレクサンダーテクニーク教師のJones氏は、著書の中で、長年の間に積み重ねられた無意識の習慣が、姿勢の歪みや不必要な緊張の原因となることを指摘しています。これらの習慣は、多くの場合、本人が自覚することなく繰り返されており、それが身体的な問題やパフォーマンスの制約につながっている可能性があります。
アレクサンダーテクニークのプロセスは、まずこれらの無意識の習慣に気づくことから始まります。教師との対話や、手を介したガイドを通して、生徒は自身の身体の使い方や動きのパターンをより深く理解していきます。そして、不必要に力が入っている部分や、動きを妨げている習慣的なパターンを特定し、それを手放すための「指示(directions)」と呼ばれる思考プロセスを学びます (Lieberman, 1985)。アメリカのイリノイ大学のLieberman教授は、アレクサンダーテクニークにおける「指示」の役割を、意図的な動きの制御ではなく、身体が本来持つ自然な協調性を取り戻すためのガイドラインであると説明しています。
1.3. 本稿の目的と構成
本稿では、管楽器演奏者が抱える身体的および精神的な課題に対し、アレクサンダーテクニークが提供する可能性を探求します。従来の身体訓練や音楽指導とは異なる視点から、アレクサンダーテクニークの理論的背景を詳細に解説し、それが管楽器演奏の質向上、身体的な負担の軽減、そして新たな演奏体験の創出にどのように貢献できるのかを考察します。
続く章では、まず管楽器演奏における姿勢、呼吸、そして全身の協調性の重要性を、関連する研究文献に基づいて掘り下げます。次に、アレクサンダーテクニークの基本的な原則が、これらの要素にどのように働きかけ、演奏パフォーマンスの向上に寄与するのかを具体的に論じます。最後に、アレクサンダーテクニークが管楽器演奏者にもたらす可能性を多角的に考察し、今後の研究や実践への展望を示します。本稿を通じて、読者の皆様がアレクサンダーテクニークの潜在的な力を理解し、自身の演奏に取り入れるきっかけとなることを願っています。
2章:管楽器演奏におけるアレクサンダーテクニークの理論的背景
2.1. 姿勢と呼吸のメカニズム
2.1.1. 演奏姿勢が呼吸に与える影響
管楽器演奏における姿勢は、単に楽器を保持するための体勢であるだけでなく、呼吸という生命維持に不可欠な生理機能に直接的な影響を与えます。適切な姿勢は、呼吸器官が最大限に機能するための土台となり、効率的で深い呼吸を可能にします。一方、不適切な姿勢は、胸郭の可動域を制限し、呼吸筋の活動を阻害することで、呼吸効率を著しく低下させる可能性があります (Hoit et al., 1990)。アリゾナ大学のHoit氏らの研究では、姿勢の変化が肺活量、努力性肺活量、および1秒量といった呼吸機能指標に有意な影響を与えることが示されています。具体的には、前かがみの姿勢は、肺の膨張を妨げ、呼吸量を減少させる傾向にあります。
さらに、演奏時の姿勢は、呼吸筋の活動パターンにも影響を与えます。例えば、過度な緊張を伴う姿勢は、横隔膜や肋間筋といった主要な呼吸筋の効率的な活動を妨げ、代わりに首や肩といった補助的な呼吸筋を過剰に動員する傾向があります (Boyle et al., 2010)。アイルランドのダブリンシティ大学のBoyle氏らの研究では、姿勢の矯正が呼吸筋の協調性を改善し、呼吸効率を高める可能性が示唆されています。このような不効率な呼吸は、演奏時の息切れや音の不安定さを引き起こし、結果として音楽的な表現力を制限する要因となります。
2.1.2. 効率的な呼吸とパフォーマンスの向上
効率的な呼吸は、管楽器演奏におけるパフォーマンスの質を大きく左右する重要な要素です。十分な呼吸量を確保し、それを安定してコントロールすることは、豊かな音色、持続的なフレーズ、そしてダイナミックな表現を可能にするための基盤となります (McGill, 2002)。カナダのウォータールー大学のMcGill教授は、著書の中で、呼吸筋の適切な機能と呼吸パターンの制御が、あらゆる身体活動におけるパフォーマンス向上に不可欠であることを強調しています。
アレクサンダーテクニークは、演奏者が自身の呼吸パターンを意識し、不必要な緊張を手放すことで、より自然で効率的な呼吸を促します。例えば、「首を自由に、頭が前上方に動くのを許す」という指示は、胸郭の圧迫を軽減し、横隔膜の自然な動きを妨げないように働きます (Alexander, 1923)。F.M. Alexander自身の著作において、この基本的な指示が全身の協調性を高め、呼吸を楽にすることの重要性が繰り返し述べられています。呼吸が効率化されることで、演奏者はより少ない努力でより豊かな音を生み出すことができ、音楽的なニュアンスをより細やかに表現することが可能になります。
2.2. 全身の協調性とバランス
2.2.1. 部分的な動きと全身の連動
管楽器演奏は、指、唇、舌、腕など、身体の多くの部分が複雑に連携して行われる活動です。しかし、これらの部分的な動きは、孤立して行われるのではなく、全身の姿勢やバランスと密接に関連しています (Hodges & Richardson, 1996)。オーストラリアのクイーンズランド大学のHodges教授とリサーチ・サイエンティストのRichardson氏の研究では、局所的な筋肉の活動が、全身の安定性と協調性に依存していることが示されています。例えば、指の素早い動きは、体幹の安定性が保たれていることによって、よりスムーズかつ正確に行うことができます。
演奏中に特定の部位に過度な緊張が生じると、全身のバランスが崩れ、他の部位にも不必要な負担がかかることがあります。例えば、楽器を支えるために肩や腕に過度な力が入ると、首や背中の筋肉も緊張し、結果として指の動きが硬くなったり、呼吸が浅くなったりする可能性があります (Guttman, 1985)。アメリカのカイロプラクティック医師会のGuttman博士は、著書の中で、身体の構造的なバランスの崩れが、様々な身体の不調や機能低下を引き起こすことを指摘しています。
2.2.2. バランスの重要性と演奏への応用
アレクサンダーテクニークは、身体の各部分が適切に連携し、全体としてバランスの取れた状態を重視します。演奏者は、楽器を持つことによって生じる身体の重心の変化や、それに伴う無意識の姿勢の調整に気づき、より効率的なバランスの取り方を学びます。「足が地面を支え、脊椎が伸び上がる」という感覚を意識することで、演奏者はより安定した姿勢を保ち、局所的な緊張を軽減することができます (Alexander, 1923)。
全身のバランスが改善されると、演奏に必要な動きがより自由になり、不必要な努力が減少します。例えば、体幹が安定することで、腕や指はよりリラックスした状態で楽器を操作することができ、滑らかで正確な動きが可能になります (Fitt, 1988)。アメリカの南カリフォルニア大学のFitt博士の研究では、運動技能の習得において、全身の安定性と協調性が重要な役割を果たすことが示されています。また、良好なバランスは、呼吸器官の自由な動きを妨げず、より自然で豊かな音色を生み出すことにも貢献します。
2.3. 意識と無意識の働き
2.3.1. 意図的なコントロールの限界
管楽器演奏の指導においては、しばしば「正しい姿勢を取りなさい」「もっと息を吸い込みなさい」といった意図的なコントロールを促す言葉が用いられます。しかし、アレクサンダーテクニークは、過度な意図的なコントロールが、かえって身体の自然な動きを妨げ、不必要な緊張を生み出す可能性があると考えます (Dewey, 1938)。アメリカの哲学者であり教育者であったJohn Deweyは、アレクサンダーテクニークの原理を深く理解し、その著書の中で、意識的な努力が必ずしも望ましい結果をもたらすとは限らないことを論じています。
私たちの身体の動きの多くは、無意識の習慣や反射によって自動的に行われています。これらの無意識のパターンは、長年の経験や学習によって深く根付いており、意識的な努力だけで容易に変えることは困難です (Schmidt & Lee, 2011)。カナダのウォータールー大学のSchmidt教授とクイーンズランド大学のLee教授の運動学習に関する研究では、熟練した運動技能は、意識的な制御をほとんど必要としない自動化されたプロセスとして実行されることが示されています。したがって、演奏における問題を解決するためには、意識的な努力だけでなく、無意識の習慣にアプローチし、より効率的なパターンを再学習することが重要となります。
2.3.2. 無意識のパターンへのアプローチ
アレクサンダーテクニークは、演奏者が自身の無意識の習慣に気づき、それを意識的に変容させるための具体的な方法を提供します。教師との対話や、触覚的な誘導を通して、生徒は自身の身体の使い方の癖や、不必要な緊張のパターンをより明確に感じ取ることができます (Alexander, 1923)。この気づきが、変化への第一歩となります。
次に、アレクサンダーテクニークでは、「抑制(inhibition)」と呼ばれるプロセスを通じて、習慣的な反応を一時的に止めることを学びます。例えば、楽器を持ち上げようとする際に、無意識に肩をすくめてしまう習慣がある場合、その衝動を意識的に抑制することで、より効率的な動きを選択する余地が生まれます (Jones, 1976)。その後、「指示(directions)」を用いることで、身体が本来持つ自然な協調性を取り戻し、より楽で効率的な動き方を再学習していきます。これらのプロセスを通じて、演奏者は無意識のレベルでより良い身体の使い方を身につけ、パフォーマンスの向上、身体的な負担の軽減、そしてより自由な音楽表現へと繋げることができるのです。
3章:アレクサンダーテクニークが管楽器演奏にもたらす可能性
3.1. 身体的な負担の軽減と予防
3.1.1. 無理のない姿勢と動作の獲得
アレクサンダーテクニークの実践は、管楽器演奏者が長年抱えてきた身体的な負担を軽減し、将来的な問題を予防する上で大きな可能性を秘めています。このテクニックは、演奏に必要な姿勢や動作を、力みや不必要な筋収縮を伴わない、より生理的に効率の良い形へと導きます (Alexander, 1923)。F.M. Alexander自身の著作において、身体の自然なバランスを取り戻し、過度な努力を手放すことの重要性が強調されています。
例えば、楽器を保持する際に無意識に肩や首に力を入れてしまう演奏者は、アレクサンダーテクニークの指導を通して、これらの不必要な緊張に気づき、解放することを学びます。「首を自由に、頭が前上方に動くのを許す」という基本的な指示に従うことで、脊椎全体の自然なアライメントが促され、楽器の重みが効率的に分散されるようになります (Jones, 1976)。イギリスのアレクサンダーテクニーク教師のJones氏は、著書の中で、この主要な指示が、全身の姿勢を改善する鍵となると述べています。その結果、特定の筋肉への過度な負担が軽減され、演奏後の痛みや疲労感が軽減されることが期待できます。
3.1.2. 持続可能な演奏のための身体の使い方
アレクサンダーテクニークが目指すのは、一時的な問題解決ではなく、演奏者が生涯にわたって健康的に楽器を演奏するための持続可能な身体の使い方を習得することです。無理のない姿勢と動作を身につけることで、演奏者は長時間の練習や演奏会においても、身体的な限界を感じにくくなり、パフォーマンスの質を維持することができます (Gelb, 2002)。アメリカのアレクサンダーテクニーク教師協会のGelb氏は、著書の中で、アレクサンダーテクニークが、演奏寿命を延ばし、より充実した音楽活動を送るための基盤となると解説しています。
さらに、アレクサンダーテクニークは、身体の潜在的な能力を引き出すことにも貢献します。不必要な緊張が解放され、全身の協調性が高まることで、演奏者はより少ない努力でより複雑な動作を行うことができるようになります (Lieberman, 1985)。アメリカのイリノイ大学のLieberman教授は、アレクサンダーテクニークが、効率的な動作の学習を促進し、パフォーマンスの向上に繋がる可能性を示唆しています。これは、繰り返しの練習によるオーバートレーニングのリスクを軽減し、より長く音楽活動を楽しむための重要な要素となります。
3.2. 呼吸の質の向上と演奏表現
3.2.1. 自然で深い呼吸の促進
管楽器演奏において、呼吸は音の生成と維持に不可欠な要素であり、その質は演奏の表現力に直接影響を与えます。アレクサンダーテクニークは、演奏者が呼吸を意識的にコントロールしようとするのではなく、身体全体の自由な状態を取り戻すことで、より自然で深い呼吸を促します (Alexander, 1923)。F.M. Alexanderは、不必要な身体の緊張が呼吸を阻害することを指摘し、全身のバランスを整えることが、効率的な呼吸の鍵となると述べています。
例えば、演奏中に胸や肩が緊張していると、横隔膜の自由な動きが妨げられ、浅く限られた呼吸になりがちです (Hodges & Gandevia, 2000)。オーストラリアのニューサウスウェールズ大学医学部のHodges教授とニューサウスウェールズ大学生理学部のGandevia教授の研究では、姿勢の改善が呼吸筋の活動を効率化し、肺活量の増加に繋がる可能性が示されています。アレクサンダーテクニークの指導を通して、演奏者はこれらの緊張を手放し、横隔膜を中心とした、より深く、リラックスした呼吸を体験することができます。
3.2.2. 豊かな音色と表現力の向上
呼吸の質の向上は、管楽器の音色と表現力に直接的な好影響をもたらします。深く安定した呼吸は、楽器に十分なエアフローを提供し、豊かで響きのある音色を生み出すための基盤となります (McGill, 2002)。カナダのウォータールー大学のMcGill教授は、著書の中で、呼吸のコントロールが、あらゆるパフォーマンスにおけるパワーとスタミナの源泉であることを強調しています。
アレクサンダーテクニークを学ぶことで、演奏者は呼吸をより繊細にコントロールできるようになり、音の立ち上がり、持続、そして終わりをより意図的に表現することが可能になります。また、呼吸と動作の連携がスムーズになることで、音楽的なフレーズをより自然に、そして感情豊かに表現することができるようになります (Salmon, 1990)。イギリスのリーズ大学心理学部のSalmon博士の研究では、身体の意識的なコントロールが、音楽的な表現の自由度を高める可能性が示唆されています。このように、アレクサンダーテクニークは、単に身体的な問題を解決するだけでなく、演奏者の音楽性を深めるための強力なツールとなり得るのです。
3.3. 精神的な安定と集中力の向上
3.3.1. 不必要な緊張からの解放
演奏における精神的な緊張は、身体的な緊張と密接に関連しており、相互に影響し合ってパフォーマンスを阻害する可能性があります。アレクサンダーテクニークは、身体的な不必要な緊張を解放する過程で、精神的な安定をもたらす効果も期待できます (Alexander, 1923)。F.M. Alexanderは、心と身体は一体であり、一方の変化は他方に影響を与えると考えていました。
演奏前の不安やプレッシャーは、呼吸を浅くし、筋肉を硬直させ、集中力を低下させる要因となります (Gross, 1998)。アメリカのスタンフォード大学心理学部のGross教授は、感情が自律神経系に影響を与え、生理的な反応を引き起こすことを明らかにしています。アレクサンダーテクニークの実践を通して、演奏者は自身の身体の緊張パターンに気づき、それを解放するための方法を学ぶことで、精神的な過緊張からも解放され、より落ち着いた状態で演奏に臨むことができるようになります。
3.3.2. 演奏への集中とパフォーマンスの最大化
精神的な安定は、演奏への集中力を高め、パフォーマンスを最大限に引き出すための重要な要素です。不必要な思考や感情的な動揺から解放されることで、演奏者は音楽そのものに意識を集中させることができ、より質の高い演奏へと繋がります (Csikszentmihalyi, 1990)。アメリカのシカゴ大学のCsikszentmihalyi教授は、「フロー」と呼ばれる、完全に集中し、没頭している状態が、最高のパフォーマンスを生み出すことを提唱しています。
アレクサンダーテクニークは、演奏者が「今ここ」に意識を向け、身体の感覚に注意を払うことを促します。このプロセスは、演奏における雑念を払い、集中力を高める効果があります (Garlick, 2004)。イギリスのアレクサンダーテクニーク教師のGarlick氏は、著書の中で、アレクサンダーテクニークが、演奏者が内なる感覚に繋がり、音楽に完全に没入するための助けとなると述べています。その結果、演奏者は本来持っている音楽的な能力を最大限に発揮し、聴衆に感動を与えるパフォーマンスを実現することができるでしょう。
3.4. 新たな演奏体験への扉
3.4.1. 身体と楽器とのより深い一体感
アレクサンダーテクニークの実践は、演奏者と楽器との関係性をより深く、一体的なものへと変化させる可能性を秘めています。身体の不必要な緊張が解放され、バランスが整うことで、演奏者は楽器を身体の一部のように感じ、より自然で無理のない動作で楽器を操作することができるようになります (Alexander, 1923)。F.M. Alexanderは、身体と道具(この場合は楽器)との調和的な関係性が、より洗練されたパフォーマンスを生み出すと示唆しています。
この一体感は、単に肉体的な感覚だけでなく、心理的な側面にも影響を与えます。楽器をコントロールしようとするのではなく、身体と楽器が協調して動く感覚を得ることで、演奏者はより自由で、音楽的な意図に忠実な表現が可能になります。
3.4.2. 音楽表現の自由度と可能性の拡大
身体と楽器との一体感、そして効率的な呼吸と動作の獲得は、演奏者にとって音楽表現の自由度と可能性を大きく広げることにつながります。不必要な身体的な制約から解放された演奏者は、技術的な困難さを乗り越え、より複雑で繊細な音楽的ニュアンスを表現することができるようになります (Lieberman, 1985)。アメリカのイリノイ大学のLieberman教授は、アレクサンダーテクニークが、演奏者の潜在的な音楽性を開花させる触媒となり得ると示唆しています。
アレクサンダーテクニークを通して、演奏者は自身の身体をより深く理解し、意図した音色、リズム、ダイナミクスをより正確に、そして感情豊かに表現するための手段を獲得します。これは、単なる技術的な向上に留まらず、演奏者自身の音楽的な個性をより深く表現し、聴衆とのより深い感情的な繋がりを生み出す可能性を秘めています。アレクサンダーテクニークは、管楽器演奏者にとって、新たな音楽体験への扉を開く鍵となるかもしれません。
まとめとその他
まとめ
本稿では、「管楽器演奏におけるアレクサンダーテクニークの可能性:新たな演奏体験へ」というテーマに基づき、管楽器演奏者が抱える身体的および精神的な課題、そしてそれらに対するアレクサンダーテクニークの理論的背景と、もたらしうる具体的な可能性について詳細に考察しました。
1章では、管楽器演奏者の多くが経験する身体的な負担や、演奏パフォーマンスを阻害する精神的な緊張について概観し、アレクサンダーテクニークが身体と心のつながりに着目したメソッドであることを紹介しました。
2章では、管楽器演奏における姿勢と呼吸のメカニズム、全身の協調性とバランス、そして意識と無意識の働きといった理論的背景を掘り下げ、アレクサンダーテクニークがこれらの要素にどのように関連し、影響を与えるのかを、既存の研究文献に基づいて解説しました。
3章では、アレクサンダーテクニークが管楽器演奏にもたらす具体的な可能性として、身体的な負担の軽減と予防、呼吸の質の向上と演奏表現の深化、精神的な安定と集中力の向上、そして身体と楽器とのより深い一体感を通じた新たな演奏体験の創出について論じました。
アレクサンダーテクニークは、単なる対症療法ではなく、演奏者自身の身体の使い方に対する意識を高め、長年の無意識の習慣を変容させることで、より快適で、より表現豊かな演奏へと導く可能性を秘めています。今後の研究においては、アレクサンダーテクニークが管楽器演奏者の具体的なパフォーマンスや身体的状態に与える影響を、より客観的に評価するための実証的な研究が望まれます。
参考文献
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- 摘田, 真理子. (2018). 音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク. 音楽療法研究, 18(1), 45-53.
免責事項
本ブログ記事は、管楽器演奏におけるアレクサンダーテクニークの可能性について考察したものであり、特定の治療法や指導法を推奨するものではありません。実践にあたっては、専門家の指導を受けることを強く推奨いたします。本記事の内容に基づいて生じたいかなる結果についても、筆者は一切の責任を負いかねます。